2011年2月20日日曜日

乳毛という自然

前回、乳毛の存在している意味は何か、と書いた。

それからしばらく、この問題に頭を悩ませていた。来る日も来る日も、脳裏に浮かぶのは乳毛のことばかり。そのときの私の煩悶する姿は、さながら生きる意味に悩む明治の文学青年のようだったと言われている。

そんな思索の結果、私は一つの結論に至った。

乳毛の存在する意味とは、私たち人間に、自然の不可解さを思い知らせるということではないだろうか。

高度に文明化された現代日本においては本当に無駄なものを見つけるのは難しい。都市部で生活していればなおさらそうである。部屋の中にはなんらかの目的のために生産されたものしかないし、外に出ても目に入るのは人工物ばかり。樹々や草花でさえ、ストレスを和らげるとか景観をよくするとかいう役割を担わされている。

しかし、乳毛ばかりは違う。身体という自然から生えてくるこの毛は、一切の社会的意味を持たずに生えて来て、何かの目的のために使用されることもない、きわめて異質な、自然本来の存在なのである。どんな有用性にも解消されない、特異な存在である。

私たち人類は、自然をコントロールすることで発展してきた。しかし、本来自然は人間によって完全に管理できるものではない。自然という存在は、人間の価値観では測り尽くせないものである。それを私たちは災害とか無駄とか、雑草とか害虫などと身勝手な言葉で呼ぶのである。

乳毛という身近な自然は、文明の力に酔っている私たちに自然の測り尽くし難さ、人間の非力さえを教えてくれているのかもしれない。

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