2013年6月3日月曜日

小論文という存在

本日は、といってももう日付は変わっていますが、ある試験でございました。

某公的機関の採用試験だったのですが、あさ、めざましで七時に目を覚ましますと、わたしは眠い目をこすりながらアラームを止め、そのまま二度目の眠りへと入ってゆきました。そして、次に目覚めたのが八時。わたしは気持ちのよいお布団から飛び上がり、髭もそらずに部屋を飛び出し、タクシーに飛び乗りました。

そうして、試験会場に到着しまして、ぎりぎりで入室。何とか戦場に立つことができたわけです。

まずは、マーク式の筆記試験。五つの選択肢から正解と思うものを選び、楕円の中を鉛筆でぬりつぶします。もはや、この手の試験は慣れっこです。高校生の頃であれば「こんなので人間の何がわかるっていうんだ!」と憤っていたでしょうが、わたしはもはや完全に学力試験というものに適応済み。何の疑問も抱かず、せっせとマークをぬりつぶします。いいかい坊や、こうやってひとはオトナになってゆくんだよ。

午後には記述式の試験が二つ。一つ目は専門的な知識を問うものですが、次のはいわゆる小論文です。

さて、この小論文というものがなかなか解せない。

いえ、難しいわけではないのです。書き方がわからないわけでもない。が、その存在そのものが実に奇妙に思われるのです。たとえば、本屋に行けばさまざまなジャンルの本がありますね。小説、エッセイ、紀行文、詩、論文、学術書、実用書などなど。しかし、小論文というものはない。

つまり、小論文というのは、試験のときにのみ受験生が書かされ、そして試験官のみが読むという、実に特殊なものなのです。「小」がつくとはいえ「論文」などというたいそうな名で呼ばれていて、その存在価値はただの問題でしかない。まるで、箱庭の中でしか生きられない実験動物のようではありませんか。

しかも、個性や独創性がさして要求されるわけでもなく、起承転結の構成と基本的な文章作法を守っていればそれでよいという、なんともおもしろみのないたぐいのものなのです。毎年毎年、どれだけの小論文なるものが、この国で生産され、採点され、処分されているのでしょうか。いやはや、まったくもって意味のない、存在根拠の薄弱な文章ではありませんか。

しかし、採点もされず、合格にもつながらず、何の益ももたらさない文章というのも、この世にはあるのですがね。ここに。

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