2014年9月26日金曜日

小説の違法アップロードがないわけ

こう疑問に思われた方はいないでしょうか。

「音楽やアニメ、映画の違法アップロードはたくさんあるのに、小説の違法アップロードを見かけないのはなぜだろうか」

ネットの海を浮遊しておりますと、YouTubeをはじめとした動画サイトには違法なコピーが溢れかえっております。アニメはむかしの名作から放映直後のものまでいくらでもありますし、映画もかなりの数が視聴可能です。音楽にいたってはもう販売元が自らアップしたりしている。

それに対して、小説はかなり状況が異なります。著作権切れの作品を公開している青空文庫、素人が書いたものを集めている小説家になろう、あるいはエブリスタといったものはあるけど、市販の作品を違法にコピーしたものというのは見たことがありません。私もネット歴は14年になりますが、そのようなものは寡聞にして知らないのです。おそらく、ほとんど存在しないのでしょう。

では、それはなぜなのか。

一つの答えとしては、小説のコピーとアップロードが意外とめんどうだということ。デジタル情報としては圧倒的に小さいはずの小説ですが、文字をすべてキーボードで打ち直すのはかなりの手間ですし、全300ページもある単行本はコピーするだけでも大仕事。それに対し、音楽や映像作品はデータ量は多いものの直にコピーできてしまうから違法アップロードもされやすい。これも理由のひとつではあるかもしれません。

ですが、もう一つ、「コンテンツを享受するコストの問題」というのもあると思うのです。

先日書いた「濃さ」の問題ともつながってきますが、ある作品を楽しむためには受け手からのコミットメントが欠かせません。どんなものにせよ、ある程度は享受する側が歩みよる必要があります。たとえばそのための時間を作ったり、観ながら読みながら考えたり、他の知識を動員したりなどなど。そして、そのコミットメントの度合いはメディア、あるいはジャンルによって異なります。テレビはぼーっと見てても楽しめる一方、小説はそれなりの集中力・思考力・想像力が必要になります。つまり、コミットメントというコストが必要になるのです。

コストというと真っ先に思い浮かぶのは金銭的な費用ではあります。映画なら1800円のチケットを買い、小説ならやはり1000円前後の書籍を買う必要がある。けど、これらはコストの一面でしかありません。実際には、それらを楽しむためのコミットメントもコストなのです。そして、小説の場合は後者のコストの方が高い。

小説は、文庫ならわずか500円ちょっとで買えます。ですが、読むのにはたいてい2時間か3時間はかかる。しかも、集中力もある程度必要になる。とすれば、金銭的なコストなどたかが知れているでしょう。小説は、お金以外のコストが高いメディアなのです。

とすると、これが、小説の違法アップロードがない理由ではないでしょうか。たとえネットからただでデータをDLできたとしても、それで軽減できるのは金銭的なコストだけです。時間の節約になるわけでも、労力の節約になるわけでもない。そんなものを、わざわざ良心の呵責を覚えてまで入手しようという気持ちが、私たちには湧いてこない。そういう事情があるのだと思います。

2014年9月22日月曜日

ワナビ向け動画

暇さえあればネット上の動画を漁りまくっている者です、こんばんは。

さて、動画にもさまざまありまして、テレビ番組やらアニメ、YouTuberが個人でつくっているものなどネットの海は有象無象の動画で溢れかえっているわけですが、今回は小説家志望の方におすすめのものをいくつかご紹介します。

以下、いずれもプロの小説家が出演して創作について語っているものなので、非常に参考になるし鼓舞されるものがあります。ではどうぞ。


(1)鈴木輝一郎小説講座


主に歴史小説を書かれている鈴木輝一郎さんの動画です。鈴木さんは岐阜で小説講座をやられているのですが、週に一度、その講座の様子を数分の動画で公開しています。新人賞を取る方法、小説家にとって必要な力、なぜ短編ではだめで長編を書く必要があるのかなど、さまざまな内容で話されています。

ちなみに、鈴木さんの『新 何がなんでも作家になりたい!』は出版業界について詳しく書かれており非常に興味深いですし、『ご立派すぎて』という小説は作家志望の男の七転八倒が描かれていてワナビには楽しい内容になっています。おすすめ。


(2)石田衣良 小説スクール


『池袋ウエストゲートパーク』でおなじみ、石田衣良さんによる小説講座。エブリスタという小説投稿サイトがあるのですが、そこが主催して行っている講座の動画です。ダイジェストながらそこそこの長さがあって勉強になります。

受講生との対話形式で進められるのですが、タイトルの付け方のコツや冒頭の書き方など明日からすぐ使える内容もありますし、デビュー後の夢のある話もなされています。個人的には「小説家になればどんな男でもモテる!」とのセリフにロマンを感じました。現在のところ第0回から2回までがアップされています。


(3)筒井康隆


重鎮筒井康隆さんのお話。『創作の極意と掟』の出版を記念して行われた講演の動画です。文学史の大局的なお話が聞けて興味深い。『文学部唯野教授』など、自著についてのお話もあって、ファンにはたまらないでしょう。最後には大迫力かつ大爆笑の自作短編の朗読もあります。


ユースケサンタマリア、いとうせいこう、しょこたん、そして筒井康隆という異色の取り合わせで行われたトーク。ユーモアたっぷりでおもしろい。


あんまり動画を貼ると重くなるので控えますが、これら以外にも、保坂和志さんと山下澄人さんの対談動画とか、高橋源一郎さんのトークなど、興味深いものがけっこうネット上にあります。執筆に行き詰まってるとか、プロの作家の言葉に励まされたいという方はいろいろ観てみてはいかがでしょうか。

2014年9月19日金曜日

読書の秋

何の発作かわかりませんが、ここ一ヶ月ほど、無性に活字への飢えが高まり、本ばかり読んでいました。活字を目で追うこと自体が快感となり、次から次へと貪り読んでおりました。今回はそんな乱読生活の中で特によかったものをご紹介しようと思います。ヒアウィーゴー!


橘 玲『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』
   『不愉快なことには理由がある』
   『バカが多いのには理由がある』
この人の書く内容を一言で表すなら、「身も蓋もない」です。現代社会のさまざまな問題を、遺伝と進化という観点からズバズバと切ってゆきます。おもしろい本ばかりなのですが、ただし、異なる本でも内容の重複が多いのでお気をつけを。
サイモン・シン『フェルマーの最終定理』
ここ二ヶ月で読んだ本の中でベスト。300年以上解かれなかったという有名なフェルマーの最終定理をめぐる数学の歴史を、素人にもわかりやすく書いてくれています。ピタゴラスからアンドリュー・ワイルズに至るまでの数学者群像劇でもあります。
アポストロス・ドキアディス『ペトロス伯父とゴールドバッハの予想』
これも数学の話ですが、こちらは小説。あたかも、「ワイルズがフェルマーの最終定理を証明できなかったらどうなっていたか」を描いたような内容。ですが、問題となるのはゴールドバッハの予想。実在の数学者が多数登場したり、ゲーデルの不完全性定理の登場という大事件が緊迫感を持って描かれていたり、非常に楽しい。ちなみに、ゴールドバッハの予想はいまだに証明されていません。
清水潔『桶川ストーカー殺人事件 遺言』
99年に埼玉県桶川市で起こったストーカー殺人事件についてのノンフィクション。清水記者が取材した異常な事件のことがスリリングな筆致で描かれています。ストーカーの怖さと同時に、事件を担当した埼玉県警上尾署の異常さについても生々しく描かれていて、背筋の寒くなる思いがします。
井川意高『熔ける 大王製紙前会長井川意高の懺悔録』
かつてニュースを賑わせた大王製紙前会長の手記。100億をカジノで失った人物の回顧録で、生い立ちからギャンブルにのめり込んで自滅するまでを描いています。懺悔録という割には誇らしげな筆致の部分もあり、逆にリアル。最初の2ページは圧巻なのでぜひ。
スーザン・ケイン『内向型人間の時代』
タイトルのままです。オタク、ネクラ、引っ込み思案、ネガティブなど、多くの蔑称がある内向型人間ですが、むしろ内向型だからこそいいのだという主張の本。 さまざまな文献や研究をフォローした上で書かれた読み応えのある内容となっています。内向型のよさをアメリカ人が訴えるというのはおもしろいことです。
岸田秀『ものぐさ精神分析』
メインとなるのは日本近代の精神分析。岸田によれば、日本は黒船来航によってトラウマを負い、精神分裂病になってしまったのだとか。この説に賛成するかどうかは別にして、よく言及される書物なので基礎知識として読んでおいて損はないと思います。やや厚い本ですが後半は単発的なエッセイなので、気になるところだけ拾い読みするというのでもいいと思います。
未上夕二『心中おサトリ申し上げます』
野性時代フロンティア文学賞受賞作。言葉を思い通り発せなくなった主人公が山でサトリという妖怪に出会い、奇妙な共同生活をしながら言葉を取り戻そうとする物語です。サトリは人間の心を読むことができる、少年の姿をした妖怪なのですが、このキャラが生意気なのにかわいくて秀逸です。
小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』
ラーメンズの小林さんが書いた単発エッセイ形式の創作論。これを読むと、ラーメンズのブランディングがいかに意識的になされているかがわかります。まさに、ストイックという言葉がぴったり。クリエイターをめざしている方には非常に参考になるし、鼓舞される内容となっています。

2014年9月18日木曜日

投稿歴

私が応募した新人賞とその結果です。結果が出るたびに随時更新してゆく予定。

(最終更新日 2016/03/29)



2009年 群像新人文学賞        1次落選
2010年 文藝賞            1次落選

2013年 小説すばる新人賞       3次落選
     野性時代フロンティア文学賞  2次落選
2014年 ポプラ社小説新人賞      1次落選
     本のサナギ賞         1次落選
     野性時代フロンティア文学賞  2次落選
     ボイルドエッグズ新人賞    落選
2015年 ダヴィンチ「本の物語」大賞  落選
     野性時代フロンティア文学賞  1次落選
2016年 小説現代長編新人賞      1次落選
     小説すばる新人賞       1次落選

2014年9月15日月曜日

ローレンス・クラウス『宇宙が始まる前には何があったのか?』

ここ半月、小説以外の本をむさぼるように読んでいるのですが、その中の一冊をご紹介します。この数十年の宇宙論・素粒子論について紹介した、ローレンス・クラウス著『宇宙が始まる前には何があったのか?』です。

タイトルの疑問に対する答えを先に言ってしまえば、それは「無」です。つまり、宇宙が始まる前には何もなかった。けど、これは普通の考え方、常識に反するものです。身の回りで起きるあらゆる出来事、あるいは天体の運動だってそうですが、何にだって原因はあると考えるのが普通です。しかしクラウスは、最新の科学に照らして考えると、無から何かが生じることはありうるし、むしろ生じなきゃいけないのだと語るのです。

ただし、このお話がメインとして語られるのは本の後半。そこに至る前には、人類が素朴な宇宙観を持っていた頃のことも書かれています。相対性理論の登場、ハッブル望遠鏡が捉えた驚くべき銀河の動き、不思議な量子論などなど、魅力的なエピソードが盛りだくさんなのですが、私がいちばん心を動かされたのは、第七章「二兆年後には銀河系以外は見えなくなる」でした。

二兆年後には銀河系以外は見えなくなる。それはどういうことなのか?

現在、天の川銀河に属する地球からは、何千億という数の銀河を見ることができます。お隣のアンドロメダから、百億光年以上離れた銀河まで、たくさんの銀河、天体が観測できます。けど、ハッブル望遠鏡によって初めて観測されたように、それらの天体はすべて、私たちのいる銀河から遠ざかっているのです。

たとえて言いますと、たくさんの点が打たれた風船が膨らむと、点同士の距離というのはすべて離れていきます。それと同様、宇宙自体、空間自体が膨張しているから、銀河同士もどんどん離れていってるのです。しかも、どうやらそのスピードは増しているというのです。さらに驚くべきことに、そのスピードはいずれ光の速さを越えてしまうらしいのです。それが、二兆年後。

となると、どういうことが起きるか。二兆年後、この銀河の外のあらゆる天体は、原子一個残さず、すべて観測不能な場所にまで飛び去っています。光速以上のスピードで去っていったわけですから、その未来においては、もう今日のように多様な天体を観測することができません。空には天の川銀河しかないという寂しい状況です。

もしその時代に知的生命体がいて、宇宙について研究している人がいたとしても、そんな宇宙では、今日のような知識を得ることができないのです。たとえば、ビッグバンがあったとか、宇宙の寿命がこれくらいだろうとか、そういった多くの知識は、遠くの天体を観測できたおかげで得られたものです。けど、はるか未来の人たちは、そういう手がかりを一切失ってしまうのです。

彼らはどれだけ力をつくし、テクノロジーを駆使しても、おそらく、私たちが知り得た宇宙像に到達することはできません。彼らにとっての宇宙は、むしろ、何百年も前の素朴だった頃の宇宙像に近くなっているのです。つまり、茫漠とした闇の中に、この宇宙だけが無限の昔から無限の未来まで浮いているというものに。

これは、想像してみると恐ろしいことです。何が恐ろしいって、おそらく、その「現代ではまちがっている宇宙像」が、彼らにとっては「真実」だからです。もし、実験と観測に基づくという科学の精神を保持するなら、彼らにとっての真実は、上記のような寂しい宇宙像にしかなりえません。それは、私たちが嘆いたところで、どうしようもないことです。こうなってくると、真実とは何かという基本的な部分がぐらついてきますね。

と、こういうお話がいちばん私にとっておもしろかったのですが、本書は全体にわたってユーモアと諧謔に溢れており、読物としてすばらしいです。値段も1600円と、この手の本にしてはなぜか格安なので、非常におすすめです。

2014年9月13日土曜日

コンテンツ体験の濃さ

小説や映画やアニメなど、世の中にはさまざまなエンターテイメント作品がありますが、その受容の仕方もまたさまざまです。今回は、作品を受容するという体験の濃さについて考えたので、書いてみたいと思います。

よく言われることですが、作品を楽しむためには、受容する側がたんに受身なままではいけません。それだと、作品のおもしろさを味わい尽くすことができない。ある程度は、小説を読みながら、映画やアニメを鑑賞しながら、考えることが必要です。つまり、歩みよることが必要になります。

そして、この歩みよりがどの程度必要になるのかは、ジャンルによっても個々の作品によっても変わってきます。たとえばテレビ番組は歩みよりがかなり少なくて済むメディアだと言えるでしょう。テレビ番組は、家事をしたり途中で風呂に入ったり、何かをしながらでも楽しめるように作られています。一方、一般文芸の小説は読み手がかなり集中して頭を働かせないと楽しめません。文章から情景を思い浮かべたり、登場人物の関係を整理したり、行間を読んだりと、かなり能動性が求められます。

この歩みよりの必要さの度合いを、コンテンツ体験の「濃さ」と呼びたいと思います。

たぶん、この感覚は多くの人が感じていることだと思います。気力が充実しているときは古典文芸などの濃いコンテンツを求め、疲れているときはテレビやゲームアプリのような薄いものを求める。こういう経験はだれしもあるのではないでしょうか。

さて、無数のコンテンツに囲まれ、日々おもしろいものを求めていると、やはりなるべく濃い体験をしたいと思うのが人情だと思います。薄いものばかりでは充実感が得られませんし、経験の蓄積も得られません。

では、濃い体験をするにはどうすればいいか。

第一に、受け手に対してより多くのコミットメントを要求するようなものに当たる、ということがあると思います。少し敷居が高いように感じても、難しそうな古典文学や哲学書に手を伸ばしてみる。そして、静かな環境で集中して読む。こうすることで、濃い経験を得られるし、さらにはそうしたタフな作品を味読する力がつくのではないかと思います。

第二に、労力を払うということも有効だと思います。濃さとは、受け手の側の歩みよりだと書きましたが、それは、考えるとか想像することだけには限りません。ライブに足を運ぶとか予定を空けるとか、そうした物理的なことも含みます。DVDで済まさずに実際にお笑いライブ、コンサート、落語などに出かけることで、より濃い体験ができるのではないかと思います。

第三には、金銭を払うということ。最近ではネット上に無料のコンテンツが溢れています。違法合法を問わず、無数の音楽、映像作品、小説が転がっています。しかし、無料で手に入るということは、こちらからの歩みよりが少なくて済んでしまうということでもあります。やはり、ある程度の金銭を払うことにより、「元を取らなきゃ」とか「お金を払ったんだから」という意識が働き、こちらのコミットメントの度合いが高まり、よりコンテンツを楽しめる状態になるのではないかと思うのです。

ネットには無数の情報やコンテンツがありますが、それらをいくら漁っても、何となく物足りなく思うことがあります。ときにはおもしろいものも見つけ、楽しみますが、どこか体験としては物足りない。すぐ忘れてしまう。蓄積されてる感覚が乏しい。こうしたことは、ネットにあるものを受容するとき、私たちの歩みよりが少ないからではないかと思うのです。つまり、濃さがない。

最後まで来てなんですが、この「濃さ」という概念はあまり一般化されていないし、はっきり意識されることも少ないものです。けど、コンテンツ体験が濃いか薄いかということを意識し、より濃いものを求めることで、もっと多くのおもしろいものに触れられるのではないかと思っています。作り手の側としても、念頭に置いておくべきことでしょう。

2014年9月3日水曜日

本のサナギ賞 一次落選

八月は丸々更新をサボってしまいました。清水です。

さて、七月末に応募していた本のサナギ賞ですが、本日ホームページにて一次選考通過者の発表がありました。

結果は、落選!

応募総数265本で、一次通過は9本のみなので、なかなか厳しいですね。

私ははやくも敗退ですが、受賞作は初版2万部、装丁や販促まで著者が深く関わるという変わった賞なので、こんごどのように展開していくのかは気になります。観察していくことにいたしましょう。

にしても、一次落ちはやはり少しショック。通ると思ったのになー。

次だ次。次があるさ!