2014年9月13日土曜日

コンテンツ体験の濃さ

小説や映画やアニメなど、世の中にはさまざまなエンターテイメント作品がありますが、その受容の仕方もまたさまざまです。今回は、作品を受容するという体験の濃さについて考えたので、書いてみたいと思います。

よく言われることですが、作品を楽しむためには、受容する側がたんに受身なままではいけません。それだと、作品のおもしろさを味わい尽くすことができない。ある程度は、小説を読みながら、映画やアニメを鑑賞しながら、考えることが必要です。つまり、歩みよることが必要になります。

そして、この歩みよりがどの程度必要になるのかは、ジャンルによっても個々の作品によっても変わってきます。たとえばテレビ番組は歩みよりがかなり少なくて済むメディアだと言えるでしょう。テレビ番組は、家事をしたり途中で風呂に入ったり、何かをしながらでも楽しめるように作られています。一方、一般文芸の小説は読み手がかなり集中して頭を働かせないと楽しめません。文章から情景を思い浮かべたり、登場人物の関係を整理したり、行間を読んだりと、かなり能動性が求められます。

この歩みよりの必要さの度合いを、コンテンツ体験の「濃さ」と呼びたいと思います。

たぶん、この感覚は多くの人が感じていることだと思います。気力が充実しているときは古典文芸などの濃いコンテンツを求め、疲れているときはテレビやゲームアプリのような薄いものを求める。こういう経験はだれしもあるのではないでしょうか。

さて、無数のコンテンツに囲まれ、日々おもしろいものを求めていると、やはりなるべく濃い体験をしたいと思うのが人情だと思います。薄いものばかりでは充実感が得られませんし、経験の蓄積も得られません。

では、濃い体験をするにはどうすればいいか。

第一に、受け手に対してより多くのコミットメントを要求するようなものに当たる、ということがあると思います。少し敷居が高いように感じても、難しそうな古典文学や哲学書に手を伸ばしてみる。そして、静かな環境で集中して読む。こうすることで、濃い経験を得られるし、さらにはそうしたタフな作品を味読する力がつくのではないかと思います。

第二に、労力を払うということも有効だと思います。濃さとは、受け手の側の歩みよりだと書きましたが、それは、考えるとか想像することだけには限りません。ライブに足を運ぶとか予定を空けるとか、そうした物理的なことも含みます。DVDで済まさずに実際にお笑いライブ、コンサート、落語などに出かけることで、より濃い体験ができるのではないかと思います。

第三には、金銭を払うということ。最近ではネット上に無料のコンテンツが溢れています。違法合法を問わず、無数の音楽、映像作品、小説が転がっています。しかし、無料で手に入るということは、こちらからの歩みよりが少なくて済んでしまうということでもあります。やはり、ある程度の金銭を払うことにより、「元を取らなきゃ」とか「お金を払ったんだから」という意識が働き、こちらのコミットメントの度合いが高まり、よりコンテンツを楽しめる状態になるのではないかと思うのです。

ネットには無数の情報やコンテンツがありますが、それらをいくら漁っても、何となく物足りなく思うことがあります。ときにはおもしろいものも見つけ、楽しみますが、どこか体験としては物足りない。すぐ忘れてしまう。蓄積されてる感覚が乏しい。こうしたことは、ネットにあるものを受容するとき、私たちの歩みよりが少ないからではないかと思うのです。つまり、濃さがない。

最後まで来てなんですが、この「濃さ」という概念はあまり一般化されていないし、はっきり意識されることも少ないものです。けど、コンテンツ体験が濃いか薄いかということを意識し、より濃いものを求めることで、もっと多くのおもしろいものに触れられるのではないかと思っています。作り手の側としても、念頭に置いておくべきことでしょう。

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