2014年11月29日土曜日

谷崎潤一郎『痴人の愛』が面白いよ

本当に面白いのですよ、これが。

谷崎潤一郎。文豪と称される作家だということは昔から知っておりましたが、今回初めてこの人の作品を読んでみました。選んだのは代表作『痴人の愛』。これも書名だけは知っていましたが、読むのは初めてでした。

で、これが面白いのなんの。

もっとも感銘を受けたのはその文章の巧さ、美しさです。これほどの美文はしばらくお目にかかっていませんでした。いや、もしかしたらこれまで読んだ文章の中で最高かもしれません。私にとって、巧い文章を書く人といえば太宰治で、かれが最高の美文家だと信じていたのですが、谷崎はそれを越えているかも。

まあ、今更「谷崎潤一郎の文章が巧い」などと、三十路も迫った人間が何を言っているのかと思われるかもしれませんが、私としてはこれは驚きだったのです。まさかこんな逸材がいたとは!

現代作家と比較しますと、文章に非常に身体性があります。具体的にも、身体的部位やその動きの描写がとても詳しいですし、風景の描写も凝っています。また、心の細やかな動きも非常に繊細に描写していて、小説の醍醐味というものを思い出させてくれます。こんなものを読んでしまうと、現代の作家の文章がみな一様に見えてしまうかもしれません。

もう少し伝わりやすい話をしますと、現代では使われなくなってしまった語彙が随所に出てきて、これがまたいい。私は元来、死語フェチというか、いつの間にか消えた言葉を再発見するのが好きなのですが、そんな私からすればまるでこの一冊は宝箱のようです。

たとえば「因果な事に」なんて、まあ使う場合もありますが、ほぼ忘れられた言葉です。「直きに」も現在ではかなり限られた場合にしか使いませんが、この作品のセリフには頻出。他にも「蓮っ葉」だの「意匠」だの「後生だから」だの、使い勝手の よさそうな語彙が盛り沢山。できればこんな言葉たちが現代に蘇って欲しいものだと思います。

ただし、私はこの『痴人の愛』のようなデスマス調の告白体が好き、という事情がありますので、谷崎の他の作品の文章も気に入るかどうかはまだわかりません。次は『春琴抄』を読んでみようと思います。

あ、そうだ。『痴人の愛』はキャラクターやストーリーもとても魅力的で、どこまでも引き込まれます。未読の方はぜひ!

2014年11月18日火曜日

面白がる技術

世の中には面白いものがたくさんあります。小説、エッセイ、映画、アニメ、漫画、ゲーム、SNSなどなど。退屈さに満ちた日々の生活の中で、私たちはこれらを励みにして生きています。どれもこれも、それぞれちがった楽しみを与えてくれるものです。

人によって、どれが好きかはそれぞれでしょう。活字が好きで本の虫という人もいれば、ネットゲームにどっぷりハマっている人もいる。どのメディアも独自の特長があるわけですから、人によって選ぶものはちがってくる。

こういう状況の中で、私たちはよく、好みは人それぞれだと言います。趣味はちがうし好みもちがう。同じ映画にしても、派手なハリウッドのアクションが好きだという人もいれば、ヨーロッパの芸術的な映画が好きという人もいる。それでいいのだと思っています。

ですが、本当にそういう相対主義的な捉え方でいいのでしょうか。この頃、そういう疑問によく捕われます。人によって好みがちがい、面白いと思うものもちがう。そこに優劣はない。ただこれだけなのか。どうもちがうような気がしています。何かを面白がるというのも実は技術であり、その技術には優劣があると思うのです。

面白がる技術。これは、テレビや漫画のような大衆向けの娯楽ではあまり問題になりません。だれでも、ほとんど何の知識も修練もなしに楽しめるように作ってあるからです。ですが、たとえば古典文学や芸術的な映画などになると、面白がれる人とそうでない人の区別が出て来る。わかりやすい例で言えば、もしある映画のシーンに過去の名作のオマージュが出てきたとき、それを知ってるかどうかで楽しみ方は変化するでしょう。そこではある程度の知識・修練が必要とされています。

私は、割と最近までは、こうしたことを意識していませんでした。自分にとって面白いものが面白いもので、つまらないものはつまらない。そういう自分を基準にした発想しかなかったのです。まさかそれが客観的に正しい評価基準だとは思っていませんでしたが、その自分の基準自体を疑ったり成長させたりということはほとんどなかった。

しかし、そのやり方でいくと、新たに面白いものを発見できる確率が下がってしまいます。もし、少しがんばって面白がる技術を修練すれば、その面白さに開眼できたものを、自分の未熟な基準で最初に判断して切り捨ててしまえば、もうそこでおしまいになってしまうのですから。

もちろん、クリエイターとしてはなるべく多くの人に楽しんでもらえるものを作るのが基本姿勢でしょう。それがプロとしての務めではある。ですが、わかりやすさばかりを追求すれば、結局、本当の面白さが損なわれてしまう。今のテレビ番組というのはこういう事態におちいっているのではないでしょうか。だから、わかりやすいものを志向しつつも、それによってコンテンツに内在する面白さを毀損してはいけないのだと思います。

再び享受する側から言えば、私はまだまだ面白がる技術を磨けていない。ということは、この世に存在する面白いものを発見できていないことになる。というわけで、これからも面白がる技術をどんどん磨き、これまで素通りしてしまった、本来面白いものを享受できるようになりたいと思います。

2014年11月16日日曜日

教養とは何か

前回書いたこととの関連で、教養とは何かという問題に興味を持ちました。そこでさっそくアマゾンで注文して読んだのがこちら。竹内洋『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』(中公新書)。

内容は、戦前の旧制高校における教養主義についての分析、それから新制高校になってからの教養主義の変化、そして学生運動を経てその後学生にとっての教養、あるいは教養主義がいかに変化・没落したかという考察です。データが駆使され、最初から最後まで一貫性を持って書かれている硬派な良書でした。

とりわけ序盤では、旧制高校の学生たちがどのような本、雑誌を読んでいたか、教養についてどんな態度を取っていたかということが語られております。時折、むかしの高校生・大学生はよく勉強したと言われることがありますが、注目すべきは、その勉強量というより、硬派な教養に対する態度、尊敬の念です。どうやらそこには、現代において失われたある種のイズム、まさに教養「主義」と称すべきものがあったようです。

つまり、それは当時の学生にとっては当然のものであり、取り立てて教養を積む意味を問うことはあまりなかったようなのです。カントを読み、ベートーベンを聞き、ドイツ語のジャーゴンを駆使している奴はえらい、かっこいい。それは自明のことであり、ではなぜカントを学ぶのか、ベートーベンを聞くのかは考えていなかったらしい。

そこで考えてしまうのは、教養主義がまさに没落した現在において、そのような硬い教養に手を出すことにどういう意味があるのかということです。私自身は哲学科に在籍して学んでいたわけですが、他の学部・学科の人からすればただの好事家であったかもしれません。あるいは、実学をやる人からすればカビ臭い学問に耽溺するオタク、または現実逃避の徒だったかもしれない。

実際、いまの世の中における哲学や古典文学の扱いというのは芳しいものではありません。理解のある人もいますが、一般的な了解としては「変わった趣味」ぐらいに捉えられている気がします。もし何か学ぶなら、ITや金融や英語、読むのなら啓蒙書やビジネス書というのが大勢でしょう。旧制高校的な教養は実用からはほど遠い。

では、それは娯楽なのだろうか、エンターテイメントなのだろうか、とも考えます。たしかに、楽しいからそういう教養書に触れるという人も多いはずです。私もある面ではそうでした。しかし、と考えてしまいます。では、ショーペンハウアーやゲーテを読むのと、アニメを見たり漫画を読むことはまったく同じなのだろうか? ただ選択肢のちがいに過ぎないのだろうか? こう自問すると、やはりイエスとは言いがたいものがあります。

実用のためでもなく、さりとてただの娯楽でもない。では、教養とは何なのか?

結局、この問題は今後も考えなければならないようです。

2014年11月12日水曜日

知的な忍耐力

今回はたぶん、まとまらない内容になると思うのですが、最近考えはじめたことを書いてみます。テーマは、知的な忍耐力。あるいは、息の長いものに付き合う力です。

何のことかと言うと、インプットとアウトプットのあいだに長い空白があるものにどれだけ耐えられるかというその忍耐力の重要性についてです。ツイッター全盛の時代になって、インプットとアウトプットはほぼ同時というのが主流になりました。出来事がある。感じる。スマホに入力する。公開される。反応が来る。このプロセスが秒単位にまで短縮された今、それとはちがう、息の長いコミュニケーション、あるいはクリエイションが逆に重要になってくるような気がしています。

ここ数年、ブログからmixi、そしてツイッターへとSNSが変遷してきた背景には、おそらく、上記のようなサイクルの短縮化があったのではないかと思います。ブログですとなかなか反応は期待できないが、mixiならマイミクからすぐコメントがつく。そしてツイッターなら数分以内にRTなどの反応が来る。このインスタントな有り様が人々の心に訴えたのではないでしょうか。

ですが、ワナビ活動というのはこの対極にあります。300枚前後のものを数ヶ月、長ければ一年もかけて書き、新人賞に応募して、結果が出るのは半年後とかです。着手から結果発表まで一年くらいかかることもざら。しかも、応募者の大半は一次で落選して名前さえ出ないわけですから、いわば無反応。こうしたことに耐えるのはなかなか厳しいものです。

たぶん、このつらさを緩和してくれるのが評価シートというものなのでしょう。一応、反応が得られますから。しかし、こうしたものを求めすぎるのもどうかと、この頃思っています。

もともと小説を書くというのは非常に根気のいることで、反応が返って来るまでだいぶ長い時間待たねばならないものです。けれど、反応がない中で、自分の中で考えや感情や情景を長期間保持することによって、そうすることでしか生じない何かというのがある気がします。小出しにして少しずつ反応を得ることで消えてしまうエネルギーというのがあると思うのです。

ワナビに限らず、プロの小説家でも事情は同じで、インプットからアウトプットまでの時間も、書いたものが読者に届くまでの時間も、かなりかかる。そういう職業に就くのなら、知的な忍耐力というのは必ず身につける必要があるだろうと思います。新聞記者やライター、漫画家やデザイナーと比べても、小説家ほど創作と反応のあいだが空く仕事というのはなかなか見当たりません。

というわけで、インプットしたものを孤独の中で醸成し、長い時間をかけてからアウトプットする、そして気長に反応を待つ、という力が欲しい、そう思います。