2015年11月11日水曜日

表現の不自由

ひゃっほー今日も休みあさっても休み。イェイ、めーっちゃ、ホ・リ・デー!

柄にもなくテンションの高い始まり方をしてみた。もちろん実際はiMacの前で仏頂面を下げてカタカタやってるわけだが、つい「ひゃっほー」なんてタイプしたくなるくらい浮かれてる。十日間無職を経験し、気分はアゲアゲである。

さてそんな中、サラリーマン生活についてふと思い出したことがあった。表現についての問題だ。日本はもちろん憲法によって表現の自由が保障されている。だから政府はアナキストの書いたものでも殺人賛美を謳ったものでも、検閲したり発禁処分にしたりはできない。けれども日常レベルでは、表現の自由などあってないようなもの。とくに会社の中ではそうだ。

会社にいたころ、二ヶ月に一度、レポートを書くことが義務づけられていた。社長もしくは会長の動画を視聴し、それに関連させて何がしか2000字ほどのものを書くのだ。これが私はいやだった。

実際どんなものを社員が書いていたかと言えば、社長もしくは会長のメッセージに賛同するものばかり。というかそれしかない。「私もそう思います。たとえば業務でこんなことがありました。かくかくしかじか。これからもがんばります」みたいな。はっきり言えば小中学生の作文と同レベル。型がばっちり決まっていて、自由に書く余地がない。塗り絵みたいなものである。

思い返すに、世の中で文章を書かされる場合、そのほとんどは暗黙のうちにルールが指定されている。ある程度は内容まで指定されている。それが苦痛である。「自由に書きなさい」と先生は言うかもしれない。しかしそれが嘘だってことは小学生でも分かる。「殺したいほどお母さんがきらいです」と書いていけないことは分かってる。だから決まりきった筋書きで原稿用紙のマス目を埋める。国語の時間にKY精神が植え付けられる。誰得である。

たしかに国家権力による弾圧はほとんどない。しかし日常レベルでは表現の自由などあってないようなもの。会社に属していればなおさらだ。しゃべり言葉も書き言葉もみんな既存の鋳型に流し込まれて、かつて持っていたはずの語彙までも忘却の彼方、そしておそらく、思考と感性までも一定の型にくり抜かれてしまうのではなかろうか。学校出てから十余年、ザ・サラリーマンの一丁あがり。

会社員に表現の自由などない。

2 件のコメント:

  1. 無職生活満喫してますね笑 羨ましいです。ところで最近小説の方は書いてます? 私の方はポプラ社小説新人賞とジャンプ小説大賞の結果待ちで、どちらも無事に一次は通過しました。早く受賞して仕事辞めたいです……。

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  2. おお、一次通過おめでとうございます! ポプラ社は一次から狭き門なのにすごいですね。小説は日曜あたりから書き始めてます。まだ8000字。先は長い。でもすごく楽しいです。ゼロからすべて自由に書ける小説っていいですよね。

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