2016年5月28日土曜日

村上春樹『1Q84』を読んだ

それはこんな話だった。


主人公は天吾と青豆という三十歳の男女である。二人は小学生のころ似た境遇に置かれており、ある日、教室で手を握り合ってお互いを好きになる。しかし、それから二十年、彼らは別々の人生をあゆんだ。そしてある日、二人は月が二つ浮かんでいる奇妙な世界、「1Q84年の世界」へと別々にまよいこみ、奇妙な体験をすることになる。

天吾は予備校で数学の講師をしながらデビューをめざして小説を書いている。そんなとき、知り合いの編集者・小松から、ある作品の書き直しを持ちかけられる。ゴーストライターの依頼だ。ふかえりという十七歳の少女が書いて投稿したその作品を天吾が書き直し、それは新人賞を取ってベストセラーとなる。

一方、青豆はスポーツ・インストラクターをしつつ、ある資産家の下で殺し屋をやっている。DVの被害にあった女性の夫を数人、何の痕跡も残さずに葬っている。あるとき青豆は雇い主である資産家の老婦人から特殊な殺しの依頼を受ける。それは新興宗教「さきがけ」のリーダーの暗殺計画だった。この殺しは成功するが、青豆は「さきがけ」の残党に追われる身となる。

一方、天吾がリライトした作品『空気さなぎ』はただのファンタジー小説ではなく、実のところ、「さきがけ」の秘密を暴露したものだった。もともとの作者ふかえりは「さきがけ」リーダーの娘だったのである。これにより、天吾も「さきがけ」にマークされる存在となる。

天吾は牛河という元弁護士に監視され、青豆はマンションの一室で息を殺して身を潜める。しばらくこう着状態が続く。牛河は粘り強い調査と観察によって、天吾から青豆の居所をつかみかけるが、老婦人のボディガードであるタマルによって殺害されてしまう。

一方、天吾と青豆はおたがいが非常に近い場所に住んでいることを知り、会おうとする。その願いはタマルの補助によって実現する。天吾と青豆は、いつしか迷い込んでいた1Q84の世界から脱出し、小学校時代からの互いへの想いを成就させるのであった。


学生時代、よく友人に村上春樹を勧められた。そして、数回読んでみた。が、毎度まいど、ハマれなかった。どれを読んでも面白いとは思えなかった。名作と名高い『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』も、百ページほどで挫折した。だが今回、『1Q84』には序盤から引き込まれ、それぞれ500頁を越える大部な三部作を読み通すことができた。

素直な感想を言えば、この小説は面白かった。読んでよかった。それは疑いない。ただ、奇妙な部分が多いのも事実である。疑問が多く残っている。

まずはリトル・ピープルの存在だ。この小説には、そういう名前の小人みたいなものが出てくる。こいつらは、歴史の影で人類のゆくえを左右しているほどの、重要な存在だとも言われている。けれど、作中ではさして大きな役割を果たしていないのだ、奇妙なことに。最後にラスボスとして倒されるわけでもないし、主人公二人がこいつらと対話するでもなく、1Q84の世界に置き去りにされて終わりである。まあ、なにかのメタファーなのかもしれないが、よくわからない。

この小説でいちばん疑問だったのは、BOOK3に入って突如、牛河という視点人物が登場したことだ。BOOK1とBOOK2では視点人物は天吾と青豆のふたりだった。だが、最終巻のBOOK3でいきなり、冴えない中年男である牛河が、視点人物として割り込んでくる。では、かれが重要な働きをするのかといえば、まあ、ある程度は重要だが、基本的には読者が知っている情報をつらつらと調べているだけだし、不細工な中年男であるからさして魅力はないし、最後にはあっさり殺されてしまう。何のために牛河のパートが設けられたのかよくわからない。

ざっくり言うと、最終的にこの小説は、多くの問題に始末をつけずに終わってしまう。上のリトル・ピープルもそうだし、「さきがけ」の実態や成り立ちがどうだったのかとか、ふかえりはどこへ行ったのかとか——この少女は途中からどこかへ行ってしまう——、なぜ1Q84なんという異世界へ行ってしまったのかとか、いろんな謎を残したまま、ふたりの主人公が逃げ、結ばれて終わってしまう。そこが不思議であった。

2016年5月25日水曜日

とんでもない平和

今の日本はとんでもなく平和だと感じる。平和すぎて、驚いてしまう。

生まれてこの方、殺人や傷害のターゲットになったことがない。一度もない。目の前でその種の犯行がなされたこともない。友人や知人が被害にあったこともない(覚えている限りでは)。それどころか、窃盗の被害にあったこともないし、カツアゲをされたこともない。

夜道を一人で歩いていても、危険など感じたことはほとんどない。子供のころはコンビニの前などでたむろするお兄さんたちが怖かったが、今では恐怖を感じない。基本的に、暴力のない世界に生きていると言ってもよさそうだ。

もちろんテレビではかなりの頻度で殺人事件や傷害事件について報道されている。アイドルの女の子が刺されたとか、沖縄で若い女性が殺害されたとか、そういう話はある。それは痛ましい事件だし、心も痛む。だが、一億二千万人が生きている国で、そういう凶悪犯罪がゼロということはありえない。どうしても一定数はあるだろう。そして、一億二千万人が生きているにしては、その種の事件はきわめて少ない。

現在、私たちは、その種の事件の詳細な報道を目にし、義憤に駆られたり悲しんだり、再発防止のためにどうすればいいかを議論したりしている。この現状がよりよくなるように願っている。この現状は、望ましくないものだと考えている。しかしひょっとしたら、「この現状」こそ、とんでもなく平和なものかもしれないと感じる。凶悪で目を背けたくなるような犯罪が少なからず起こっているように見えるこの現状は、もしかしたら、ほとんど最良の部類に属する状況かもしれない。

十年後二十年後に日本の治安はどうなっているだろう。もしかしたら、二〇一〇年代を思い出し、「あのころは平和だった」としみじみ懐古することになるんじゃないか。

2016年5月20日金曜日

老化について

ときどき加齢について考える。

現在、私は三十一歳だ。まだ若いといっていいだろう。しかし、中年とカテゴライズされる日はそう遠くない。

そこで思うのだが、老化というのはどの程度起こるのか。一般的に、二十代を過ぎると人間の身体能力、あるいは部分的には知力も、少しずつ低下していくものとされている。そういうふうに了解している人が多い。だが、それは本当なのか。

予想だが、知力に関してはおそらく、相当な高齢にならないと劣化しないと思う。十代のころと現在とで比べると、教養が増えた分、理解力や思考力は圧倒的に向上している。おそらくは、さらに今後も向上を続けるだろう。記憶力も然り。二十歳を過ぎるまでは、私は暗記をすることが何より苦手だったが、二十代を経てだいぶ改善された。

あるいはまた、大学の五十代、六十代の教授たちを見ていても、学生に比べて頭脳が劣化しているようには見受けられなかった。高齢になると知力がにぶるだとか吸収力が下がるだとかはおおむね嘘だろうと思っている。

身体能力についても、一般的に言われるほど、加齢はマイナスの影響を及ぼさないのではないか。適度な運動をし、肥満をするような自堕落な食生活を避けていれば、ほとんど若いときと同程度の身体能力は維持できそうな気がする。

ただ、二十代あたりが肉体のピークで、そのあとは下降していくばかりというイメージはある。ほとんどの人が、人体をそういうものだと思っている。おそらくその背景にあるのはスポーツ選手のキャリアだ。スポーツ選手は、はやければ十代で選手生活のピークを向かえ、二十代後半や三十代くらいで限界を迎えて引退する。実際、彼らの肉体のピークは若い時期にくる。ただし、スポーツ選手はきわめて特殊な身体の使い方をしている。肉体を酷使すれば、燃え尽きるのも早いのは道理である。普通の生活をしているだけのわれわれに、その例は当てはまらない。

端的に言えば、肉体や頭脳が老化することで劣化するというのは、ほとんど幻想だと思う。「歳だから……」と言ってため息をつき、能力の衰えを嘆くのは、多くの場合において勘違いであると思う。希望的観測と言われるかもしれないが、少なくとも、このくらいに了解しておいた方が先行きが明るいし、身体や知性の衰えもやわらぎそうな気がする。

そんなわけで、私は永遠に二十八歳に留まろうと思っている。

2016年5月10日火曜日

五月問題

五月はきらいだ。

五月はたしかにいい季節だ。過ごしやすい。暑くもなく寒くもなく、まだ梅雨でもないし、杉花粉は終わったし、一年の中でもいちばんいい季節かもしれない。だけど、なぜか知らないが、五月になると調子が悪い。

体調も微妙によくなくて、何よりやる気が起こらない。毎年毎年、「なんかこの頃やる気が出ないなぁ」と思っていると、五月に入っているのである。しかも、新しい環境に入ったせいでなる、いわゆる五月病というわけではなく、前年度から変わらぬ状況にあっても、五月は調子が崩れる。

もともとの計画では、もう今頃は新作に着手しているはずであった。プロットもキャラクター設定もビシッと完成させて、本文を書いているはずだった。だが、本文どころか、基本的な設定やテーマすらあやふやである。「これならいける!」というとっかかりがない。

仕方なく、しばらくインプットに徹することにする。千鳥のロケがおもしろい。

2016年5月5日木曜日

コンビニの廃棄

コンビニのバイトを始めてもう三ヶ月近く。仕事はだいたい覚えたし慣れた。これまでいろいろなバイトを経験したが、歴代でも一番か二番の楽さである。週に一度はJKと同じシフトに入って雑談をすることもでき、つくづくいい仕事を選んだものだと思う。

さてしかし、この楽バイトにも一つ、ちょっとだけだが、厭な点がある。それは、食品の廃棄だ。

日曜日の午後六時、ワンオペで働いている私はカゴを手に食料品のある棚へ向かう。そして端っこから商品を手に取り、賞味期限が二時間を切ったものを次々にカゴへ放り込んでいく。おにぎり、弁当、サンドイッチ、寿司、サラダを、それはもう、どさどさと、溢れんばかりに棚から取り去ってゆく。そしてそれらをレジにて廃棄登録し、バックヤードにあるゴミ箱へ、文字通り「捨てる」のである。

この作業、けっこう良心が痛む。

小さい頃から、食べ物を大切にするようにと教育されてきた。お茶碗についた一粒の米も残さず食べなさいと、農家の方々が精魂込めて作ってくれたんだからと、大人たちにそう言われ、食べ物を大切にしようと思ってきた。もったいないの精神は、ほとんどの日本人同様、私の中にも根を張っている。

なのに、このバイトでやっていることは何だ。農家の方々が精魂込めて作った食べ物を、まだ全然食べられるのに、ゴミとして捨てているのである。業務用の大きなゴミ袋に溜まった無数のおにぎり、お弁当、サンドイッチ、サラダを見て、良心がズキズキと痛む。

あれだけの量の食品があれば、余裕で大人五人くらいは一日生きて行ける。食事の量としては十分だ。他の時間帯の廃棄も含めれば、人間十人分くらいが食えるだろう。コンビニ一店舗の廃棄で、毎日十人が食事できると考えてみる。現在、全国にはコンビニが五万店あるという。とすれば、廃棄だけで五十万人の食事が賄えるわけである。

それを、すべて捨てているのだ。


コンビニで食べ物を買った人は、その買ったものを、ありがたくすべて食べているのかもしれない。もったいないの精神で、食べ物を大切にしているのかもしれない。だが、流通のシステムの中で、膨大な数の食品が粗末に扱われている。なんだか空恐ろしい。