2016年6月30日木曜日

物語の離陸

小説執筆はさまざまなものに喩えられる。マラソン、山登り、それから、ええと……。まあ、あまり思い浮かばなかったが、ほかのものに喩えて語られることがある。私が自分で書いていてよく思い浮かべるのは、飛行機の航行である。

一本の長編小説が十万字程度だとすると、私の場合、第一章はたいてい一万五千字ほどになることが多い。ここで、いちばん大事なプロローグ的な場面があり、メインキャラクターがほぼすべて出そろい、話が駆動していく。基本的な設定を出したり、キャラクターを立たせるなど、大事な要素の多い部分だ。それだけにかなり迷うし、時間がかかるし、何より不安である。

だが、この最初の一章を終えると、ふっと、物語が離陸する感覚におそわれる。それまでは形になるのかわからない、ひょっとしたらボツになるかもしれないものが、ある程度の輪郭と方向性を得て、飛び立ってゆく感じがする。外出先で第一章を書き終えて、家へ向けて車を運転しているときなどに、ふと「離陸したなー」と思う。

こうなるともう、かなり安心する。あとは何とかなりそうだと思う。ここが飛行機との類似点だ。飛行機を飛ばすときも、危険なのは離陸と着陸である。ぼんやりした知識ではあるが、飛行機も、離陸を安全に成し遂げれば、上空を飛び続けることはさほど難しくないらしい。自動操縦だって使える。小説も、安定飛行に入ってしまえばもう破綻する危険性は少ない。どういう内容になるかは置くとしても、小説としての体をなさないという最悪の事態にはほぼなりえない。

というわけで、そういう段階に至り、いまは気持ち的に楽だ。第一章でセットアップしたものを膨らませ、ドライブさせ、なるべくいいものにしていきたい。そして、しばらく先のことだが、もう一つの難関である着陸も上首尾に行いたいものだ。

2016年6月28日火曜日

飽きる力

ちょっと前に流行した新書風のタイトルにしてみた。今回は飽きることについて、しかもそれを能力として捉えて、考えてみたい。

なにかに飽きるというのは、いいことなのかどうか。まず、それまで好きだったものを好きでなくなるという点から考えれば、これは寂しいことであり、歓迎すべき事態ではない。ずっと好きだったものが楽しめなくなるというのは悲しいことだ。

だが一方、同じようなものを延々と飽きずに楽しめるというのも問題がある。時間をつぶすという点ではいいが、同じようなものばかりに接していると、新しいものを取り入れられない。本来、自分が潜在的に好きなはずのものすら、視界に入って来ないおそれがある。これは重大な機会損失だ。

そして、自分が作り手になろうと思えば、何かに飽きないということは、致命的ですらあるかもしれない。

たとえば小説でもいい。既存の小説にずっと飽きず、いくらでも読んでいられるならば、それで十分楽しい。満足できる。となると、わざわざ自分で新しいものを書こうという気にならないだろう。つまり、飽きないということは、創造性を育まないのだ。すでにあるものに安住するようになってしまう。クリエイションは往々にして、すでにあるものに飽き足らないから、それを改変したり換骨奪胎して新しいものを作り出すという流れになっている。だから、「飽き足りている」状態というのは、クリエイターにとっては致命的だ。

そうなると、理想的には、どんどん好きなものを増やし、それらにどんどん飽きていくべしということになる。次々に新しいものを取り入れ、飽きていくというサイクルがいいということになる。だがそうなると、一つのジレンマに直面する。つまり、そんなことを続けていたら、いつか楽しいものがなくなってしまうんじゃないかということだ。

もちろん、小説にしろ映画にしろ漫画にしろ、すでにコンテンツというのは人間が一生かかっても消費しきれないほどのアーカイブは存在している。だから、未消化のものは常に膨大に残る。だが、そもそもジャンル自体に飽きるという可能性はある。そうなったら、寂しいことにならないか。

享受する側としては、実際、寂しいかもしれない。けれど、そうなったら、やはり自分で新しいものをどんどん作るか、あるいはもう、まだ飽きていないジャンルに移るしかないのだろう。飽きる力の向上には、少し哀しい運命が待ち受けている。

2016年6月24日金曜日

教育格差

子どもたちに教育格差が広がっていると言われている。親に経済力があればその子どもは私立の学校に通ったり塾に行けたりする一方で、そうでない親の子は、良質な教育を受けられないという話である。このごろは、経済的な問題で大学進学を諦めざるをえないといったことも聞く。

しかし、私が感じているのは少し別の教育格差だ。

私は現在、家庭教師をやっているが、先日、ある一人の生徒が辞めた。中学三年生の男の子で、成績は下の下。公立の中学校に通っていて、定期テストではクラスの下から三番目あたりという子だった。とりわけ数学はひどく、小学校のドリルからやらせねばならないという惨状だった。

だが、問題だったのは勉強のできなさではなかった。むしろ、向上心のなさだった。いま勉強ができないことはたいした問題ではない。いまできずとも、少しずつ努力していけば、成績はあがるはずだった。実際、地頭がそれほど悪いとも思えなかった。だが、彼は私が課したわずかばかりの宿題もやらず、最後には指導中にも言うことを聞かなくなり、勉強を放棄してしまった。

こういう生徒はたまにいるが、すごく不思議に思う。一方では、宿題をちゃんとやり、私が言うことをしっかり聞いて理解し、自分から質問してくる子どもがいる。そういう子のためには私の方もミニテストを作ってきたり、授業の準備に時間をかけたり、いろいろと手を焼くようになる。他方で、だめな生徒に対してはこちらもやる気がなくなり、労力も使わないようになる。

つまり、家庭教師を雇えるかどうかという格差ではなく、雇った家庭の子どもの中に、圧倒的な格差が生じているのだ。

これは学習塾でも強く感じていた。学習塾の費用は決して安くない。どの家庭もかなりの負担をしている。だが、できる子どもはその費用をはるかに越えるほど、塾と先生を使い倒す。授業は真剣に聞き、自習のために足繁く通い、先生を質問攻めにする。もっと問題を解きたいと言って教材のコピーを頼む。その一方で、できない生徒はいっさい質問をしないし、自習もろくにせず、むしろ教師との関係を悪化させてストレスを溜め込んだりする。怒られて泣いてたりする。だが、かかる費用は同じなのだ。

同じ教育の機会を与えられていても、その活かし方はできる人間とできない人間とで天と地ほどの差がある。この差は途方もなく大きい。中学生ではもう歴然とした差が生じ、その差は歳を重ねるごとに双曲線のように広がっていく。

幼いころの能力の差が、長きにわたる将来を決定してしまう。残酷な話だ。

2016年6月17日金曜日

もうひとつの次元

次元について考えている。ルパンの相棒ではなく、ディメンションのほうだ。

数日前から、ハーバード大の美人教授であるリサ・ランドールの著書『ワープする宇宙』を読んでいるのだが、これが実に刺激的である。平易な文章によって、多次元世界、あるいはパラレルワールドについて書いているのだ。

いま私たちのいる宇宙というのは、三次元の空間に時間の一次元を足した、四次元の世界である。だが、リサ・ランドールによれば、これより多くの次元が存在する可能性があるのだという。しかも、ひも理論によれば、それは十次元ないし十一次元という、かなり多い数であるという。

もしこれが本当ならば面白い。私たちの空間は三次元だが、実際には四次元あって、その四次元空間のなかには、ドミノの牌のように、三次元世界が間隔をあけて存立しているというのが現実かもしれない。つまり、唯一の宇宙であると思っていたこの宇宙は、無数にある宇宙のうちの一つに過ぎないのかもしれない。であれば、他の宇宙には私たちとは違う知的生命体がいて、独自の進化を遂げているのかも。いや、もっとおもしろいのは、私たちの宇宙とほぼ同じでそっくりなのに、微妙に違う宇宙があるという考えだ。さまざまなバージョンの宇宙が無数にあるんだとすれば、それは楽しいものである。

あるいはさらに、四次元空間をそもそも住処とする生命体がいれば、それもまたおもしろい。四次元猫とか、四次元少女がいれば、ぜひ会ってみたいと思う。五次元ナイジェリア人とか六次元舛添要一とかも、何やらすごそうである。

よくわからない話になってきたが、次元がいま思っているより多くあるかもというのは、想像するだけでわくわくする話だ。今後研究が進み、実証的に明らかにしていって欲しい。

だが、ふと考えてみると、創作活動をするというのも、余分な次元を持つことに似ている。とりわけ小説というのは、そのなかに空間の広がりと時間の流れを持っている。そして、現実と似て非なるものである。現実とはいくらか違う、独特の法則に縛られている。とすれば、創作活動を行うこと自体、別の次元の宇宙にコンタクトすることなのかもしれない。実際、創作というのは、文字通り「余剰の」「余分な」次元である。普通の世界の人々は、ある人間を見て、その人が現実とは別の時空を持っているなどとは認識できないのだから。

2016年6月16日木曜日

女はひとの悪口ばかり言っている

ようやく新作に着手した。見切り発車であることは否めないが、手を動かすことによって何かが思い浮かぶこともある。実際、いろいろ思い浮かんでいる。このあたりの機微は大学受験の数学で培った感触が役に立つ。何事もがんばっておくものだ。

さて、以前にも書いた通り、今回の作品は自宅以外で書いている。少々遠いが、三十分ばかり車を走らせ、無料で使える地域のコミュニティスペース的なところやタリーズなどを利用している。とくに前者はついこのあいだ初めて足を運んだのだが、大学のキャンパスにある建物みたいで、実に居心地がいい。税金も払わずにこんなに利用していいのかと思うほどである。

そういう公共の空間というのはほどよく騒音があるからいいのだ。ほどほどの物音、話し声、BGMというのは想像力を掻き立ててくれる。筆の運びをなめらかにしてくれる。ただ、ひとつ気になることがある。それは、女性たちの会話の内容についてだ。

私が小説を書いていると、たいていどこかの席で女性たちが三、四人集まって雑談をしている。主に年配の女性たちだ。別に、雑談をすること自体は構わない。コミュニティスペースもカフェも、そういう場所なのである。だが、少々気になるのは、彼女たちが例外なく、いつでもどこでも、だれかの悪口に花を咲かせているということだ。

これは驚くべきことである。私は別に、特定の集団といつも鉢合わせるというわけではない。私の近くにすわる人は決まってはいない。さまざまな人がいる。だが、みんながみんな、それが女性でありさえすれば、共通の知人のことを悪く言っているのである。

「あの人はちょっと常識に欠けてる。配慮が足りない。こうするのがまともでしょう? あたしあの人に言ってやろうかと思うの。こんなこと言われてびっくりしちゃった。どうかと思うわよ。もっと他に言い方があると思わない? あたしの身にもなってみてよ。もう付き合ってらんない。あれじゃ通用しないわよ——」

といった文言がたえず聞こえてくる。それはもう、恐ろしいものである。

私の経験上、男同士で集まっても、だれかの悪口が主題となることはなかった。ときにはだれかのことを話には出すが、そしておかしな点を指摘することもあるが、それはあくまで話のネタとして、面白いと思うからしゃべるだけだ。素で悪口や陰口をたたくことはまずない。もし本当に問題があると思ったり、嫌いな人物がいれば、だれかとそれについてしゃべることはないだろう。ただ、個人的に相手の不利益になるように動くか、付き合いをやめるだけである。

男女の差についてはさまざまに言われるが、男の私にとっていちばん不可解な女の習性は、集団で悪口を言うというものかもしれない。

2016年6月11日土曜日

スポーツは何の役に立つのか

最先端の科学の研究というのはなぞが多い。素粒子だとか、ひも理論だとか、ニュートリノだとか、実に日常生活からはかけ離れている。最近も、百何番目だかの元素が発見されてニホニウムと名付けられたなんてニュースがあったが、そのニホニウム、生まれてから千分の二秒で消滅してしまうそうで、どんなもんだか想像しづらい。

で、そんな話に接したとき、よく発せられるのはこんな問いである。

「それって何の役に立つの?」

私はこの問いが嫌いだ。自然科学は、すべて実用性のために研究されているわけではないし、最先端の知見というのはいつどうやって有用なものに転化するかわからない。そんなもの、予めわかりようがない。そもそも、知のフロンティアを開拓することそのものが目的なのだ。目的たりうるものだ。これを手段としてしか見れない精神は、実に貧困である。

だが、今回言いたいのはそういうことではない。科学に対して「何の役に立つの?」と問う人々に対して、私がいつも抱く疑問があるのだ。つまり、科学にはその問いを突きつけるのに、なんでスポーツには同じことを言わないの? ということだ。

スポーツ。私から見るとこれほどなぞに満ちたものはない。いや、素人が娯楽とか息抜きにやるのはいいのだ。それはレジャーであって、ぜんぜん理解できる。しかし問題はプロスポーツである。いったいなぜ玉を蹴ったり打ったりして、億単位の金が動くのだ? みなが熱狂するのだ? それが解せない。

スポーツというのは何の役にも立っていない。はやく走ったり、たかく飛んだり、ボールを遠くまで投げたり、遠くまで打ったり、そんなことをしても、われわれの生活には何の影響もない。有用性ということで言えば、スポーツはゼロである。

もし科学に有用性を求めるのであれば、ウサイン・ボルトにもこう問うてもらいたい。彼が百メートルを全力疾走し、世界新記録を出したその瞬間に、こうインタビューしてもらいたい。

「はやく走って、何の役に立つんですか?」

イチローに対しても、同じように問うてもらいたい。日米通算で歴代最多安打を達成したその試合後のインタビューで、「おめでとうございます」の第一声のあと、こう尋ねてもらいたい。

「だけど、玉を打って何の役に立つんですか?」

そして、キレたイチローにバットでぼこぼこにされて欲しい。

2016年6月9日木曜日

どこで書くか

小説を書いていると、何を書くか、どう書くかということを考える。対象と、方法である。しかし、もうひとつ重要なことがある。つまり、どこで書くか、だ。環境である。

ここ二、三作について言うと、私はアイデアを出すときは喫茶店やファストフード店などを利用し、本編の執筆は自宅でやっていた。ある程度まわりがざわざわしていたりBGMがあった方がアイデアを出すのにはよく、場面をシミュレーションしたり文章を書いたりするには集中できる自宅の方がよかった。

ただ、それが正解とも限らない。四つ前、五つ前くらいの作品は本編を書くのにもカフェなどを利用しており、それはそれでうまく行っていた。とりわけ発想の飛躍であるとか執筆スピードに関しては、少々気が散るくらいの環境の方がよかった。静かな自宅で書く場合、ひきしまった文章は書きやすいのだが、逆にスピードが遅くなる。それに、どう表現したらいいのか、集中できすぎてやりにくかったりする。

ここが勉強と違うところである。私はマクドナルドやカフェで勉強するということができない。やろうとも思わない。だが、創作の場合はケースバイケースになる。経験上、作品のトーンや気分によって変わってくる。だから、普遍的な「執筆に適した場所」というのは存在しないようである。

今日は試しに、よく行くショッピングモールに入っているタリーズでやってみた。席数もさほどない、小さな店舗だ。その窓際の席で、ノマドワーカーよろしくマックを広げてみたのだが、冒頭の一文が書けた。なかなか自分でもいいと思える一文が出てきたのだ。おそらく、自宅にいたら書く気にすらならなかったし、書こうとしても出てこなかったであろう一文が、だ。

今度の作品はたぶん、カフェなど自宅以外での執筆が向いている。しばらくその方向でやってみようと思う。コーヒー代がかかるのが痛いけれども。

2016年6月7日火曜日

社会人入門

今年ももう六月である。四月に大学を出て就職した人の中には、なかなか社会人としてうまくやれていないという方もいるだろう。あるいはまた、来年の就職のために動き出した学生の中にも、社会に出てちゃんとやっていけるのだろうかと不安を抱いている方がいるかもしれない。

そこで今回は、社会人として八ヶ月の経験を有する私が悩める若者たちにアドバイスを送りたい。まっとうな社会人としてやっていくための方法や考え方を、僭越ながら、以下に四つ述べさせていただこう。

第一に、「組織のために尽くすこと」。

社会人とは、正確に言うならば会社人である。つまり、会社という組織に雇用された人間のことだ。このような人は所属先である組織なしには生きることができない。それゆえ、常に、組織の利益および存続が個々のプライベートよりも優先されるのである。

社会人は始業時間よりもはやく出社し、就業時間よりも遅く帰宅するのが暗黙のルールである。かなりの場合、就業時間外の労働に対しては給与が発生しないが、それに対して不平不満を言ってはいけない。よろこんで労働力を搾取されること。これこそが社会人として求められる基本であり極意である。

こうした理由から、有給休暇をなるべく取得しないことも必要だ。有給を取得しないということは、サービス残業と同じく、会社によって労働力を搾取されることにほかならない。だが、それゆえに甘受すべき事柄である。労働力の無償奉仕こそ、社会人としての本懐なのだ。さらに、会社の経営状態によっては月百時間以上におよぶ残業や過酷な条件での労働も必要となるため、場合によっては、自己の基本的人権を放棄しよう。過労死に至らない限り、個人の健康や生活を優先することはすべて「甘え」もしくは「学生気分」と称され、社会人にとっては最大の恥辱となる。

第二に、「組織の価値観に合わせること」。

ただ労働力を提供するだけでは足りない。搾取されるだけではいけない。社会人たるもの、その内面においても、可能な限り会社組織の価値観に染まらなければならない。独自の価値観を持ったり、自分でものごとを考えたりするのはタブーである。会社の繁栄をわがことのように喜び、凋落をこころの底から悲しめるようになろう。

その際、法律や道徳を気にしてはいけない。たとえ違法であり社会規範に背く行為であったとしても、会社の意向であればそれに沿うようにふるまわなければいけない。こうした意味で、会社ぐるみの偽装・不正会計に荷担した大企業の社員たちは社会人の鑑である。見習うべし。

第三に、「夢を捨てること」。

会社は個々の従業員の夢になど興味がない。それが会社の発展に関係がないとすればなおさらである。むしろ、会社の労働以外のものに時間と労力を割かれては困るのである。だから、個人的な夢はなるべくはやい時期に捨て去ることだ。

ただし、叶えるつもりのない夢は持ってもさしつかえない。夢を持ちつづけるのは精神衛生上いいことだから、その意味での夢は持っていてもいい。だが、それを実現しようとしてはいけない。努力してもいけない。せいぜい、飲み会の席で「実はこんな夢があるんです」と語る程度に留めよう。就職から数十年が経過し、もはや手遅れだろうと思われる年齢になったら「おれにも若いころこんな夢があったんだ」としみじみ語ることも問題ない。

しかし、基本的には夢は持つべきではない。一生涯、自分は何者でもないのだということをこころに刻んでおこう。

最後に、「働く理由をつくること」。

上記の一から三を読んで、なかには社会人としてのハードルが高いと感じた方もおられるかもしれない。組織のために自分を殺したり、夢を捨てるくらいなら、社会人なんかまっぴらだと思われたかもしれない。実際、世の中にはいちど社会人となっても途中でドロップアウトしてしまう人もいる。日々あくせくと働き、自分はなんのためにこんなことをしているんだという疑問も湧いてくるかもしれない。最後に、そうならないための方法をひとつ提案しよう。

それは、結婚して家族を持つことである。結婚して——男性目線となってしまい恐縮だが——できれば奥さんには専業主婦になってもらう。そして、子供ももうける。すると、独り身であれば辞めてしまおうかと思うような仕事でも、「家族のために働く」という強力な理由付けができる。おまけに、こうしたセリフは社会人としての評価を著しくアップさせてもくれる。

新築のマイホームを買って三十年以上のローンを組むのもおすすめである。こうした縛りを自らつくってしまえば、容易に会社を辞めることはできなくなるからだ。環境を整えることは、社会人を続けていく上でも重要なのである。

以上、若輩者ながら社会人としてのコツのようなものを書いてみた。新社会人になった方、これから社会に出ていこうという方は、ぜひ参考にして頂きたい。

2016年6月4日土曜日

よく見る夢

私はそれほど頻繁に夢は見ないのだが、しかし一つだけ、繰り返し見る夢がある。それは、高校に通う夢だ。

今朝も見た。私は高校生で、電車に乗って高校へ行った。教室にはクラスメイトたちがおり、まさに普通の高校生活。そこで英語や世界史なんかを学ぶ。現実にあった高校生活とほぼ同じである。

だが、一点だけ不自然なところがあった。いつも、そこだけが現実と違う。つまり、夢の中で高校に通っている私は、自分がもう大学を出ていい大人になっていることを自覚しているのである。すでに大学を、それどころか大学院まで出たことをわかった上で、夢の中の私は高校の授業を受けている。

こんな夢を見るのは、私の中で高校時代というものが未消化であるからだ。高校生のころ、私はひとりの友人もおらず、勉強にもやる気をなくして劣等生となり、ひたすら時間が過ぎるのを待っていた。結果、ぎりぎりの出席日数と成績で卒業するに至った。たしかに、私は卒業証書をもらった。だが、能動的に卒業したという意識は乏しい。むしろ、タイムアップで放り出された感がつよい。

おそらく、私の潜在意識においては高校時代が終わっていないのだ。私は、内面の問題として、高校を卒業していない。いまだに、高校に捕われている。社会的には院卒とされているが、精神は高校時代に押しとどめられている。

未練がある、というのとは少し違う。だが、「ちゃんと終わっていない」という感覚が濃厚にある。部活もやっていない、クラスメイトとの関係もだめ、授業にもついていけてない、みんなと一緒に受験に臨むということもしていない。すべて未了、未完、不発である。

中学生のころに漠然と憧れを抱いた高校時代はついぞやってこなかった。そこはスキップして、私は大学生になった。空白がある。その空白を「未完の青春」とでも呼ぼう。「未完の青春」はピリオドを欠いたまま、潜在意識に残りつづける。

いわばそれは、途中でばっさりと切断された苗のようなものだ。そしてその苗はもう二度と息を吹き返さない。ふたたび伸びることはない。三十を過ぎて、もう一度高校生に戻って青春を送ることはできないのだから。だが、「未完の青春」は、未完であるがゆえに、また別種の仕方でこれから発展してゆく可能性を持っている。たぶん、そうだと思う。切断された苗から、きっと物語という想像上の「続き」が育ってゆくのだ。

長めのインターバル

小説を書かない日々がつづいている。

前作を書き上げたのがもう三月の下旬である。そこから四月五月とあって、もう六月だ。一ヶ月半ほどのインターバルを置き、そこで新作の構想を練って着手しようと思っていたのに、もう二ヶ月以上が経過してしまっている。

これが勤め人であれば、別に構わないだろう。働きながらの執筆なら、なかなか時間が取れないなど、理由はいくらでもある。だがこちとらフリーターの身である。たっぷりと溢れるほどの時間がありながら、こんなに書かないというのは問題だ。

次回作の課題はキャラクター造形であると決め、いろいろ考えてはいる。これまでにやったことがないくらい、キャラクターの履歴書というか、設定集を作ったりもしている。だが、それも思ったほど捗らないし、何より作品の全体像が、雰囲気が、世界観が固まらない。俗に「キャラクターがしっかりしていればストーリーは自然とできる」などとも言うが、ストーリーもできてこない。

こんなとき、ワナビとしては二つの選択肢がある。ひとつは設定やらプロットができるまで試行錯誤しつつ待つという戦略。もうひとつは、かなり不完全であっても見切り発車で書き始めるという戦略。

この二つ、どちらも過去に経験済みだ。そして、どちらのやり方でも失敗したことがある。前者のように待った結果、ひどく長いあいだ書かずに時間を無駄にしたことがあるし、後者のようにえいやと踏み出した結果、生煮えみたいな作品ができあがった。これはある賞で一次落ちし、使い回す気も起こらなかった。

だから、非常に悩ましい。もう少しすれば「いける」という実感が湧くくらいアイデアができあがるかもしれないし、ただただ時間だけが過ぎていくかもしれない。どうすべきか。

しかし結局、こんな場合にどうすべきかという執筆作法というか、メタ創作論みたいなものも、試行錯誤しながら発展させていくしかないのだろう。これも修行のうち。とりあえず、最長であと二週間ほど様子を見て考えよう。