2016年7月30日土曜日

野蛮への転落

前回、人間の能力の差について書き、優れたものが生き伸び、劣ったものが淘汰される世の中がいいと述べたが、19人が亡くなった相模原での殺傷事件を受け、この考えの危うさに気づいた。

能力のある者が報われる。結果を残した者が評価される。それ自体は悪いこととは思われない。だが、この背後では、能力のない者、結果を残さない者、あるいはそうした可能性がそもそも低い人たちが蔑まれているのかもしれない。

障害を持った人を差別してはいけない。まして、殺していいということにはならない。これはほとんど自明のことに思われる。まともな人間ならわかるようなことだ。しかし、高い能力が評価され、競争が煽られ、勝者と敗者が画然と別れる、そんな世の中の風潮が昂じれば、やがて、そんな自明に思われることさえ破棄されるのかもしれない。実際にそうなったのがナチス政権下のドイツであった。当時のドイツではユダヤ人虐殺に先だって、多くの障害者たちが殺されてしまった。

というわけで、能力の差とそれによる競争を礼賛する思想は危険だ、ということがわかった。けれども、世の中全体としてこの流れが変わることはそうそうないだろうし、私自身も、基本的にこういう風潮がきらいではない。ただし、障害者を社会の厄介者であるとして殺してもいいという社会はもちろんいやだ。それは間違っている。けど、前者から後者へは、実は、「必然的に繋がっている」のではないか、との疑いもある。

それを主張したのが、第二次大戦期を生きたユダヤ人哲学者、アドルノとホルクハイマーだ。彼らは『啓蒙の弁証法』の中で、「合理主義は野蛮へと転落する」と言った。言い方を変えるなら、「啓蒙は神話へと必然的に至る」。つまり、近代が作り上げた合理主義、啓蒙の精神というのは、必然的に、ナチスによる蛮行に至るというのだ。

ひょっとしたら、いま一億総活躍社会などと言われる日本で、そうした「野蛮への転落」という事態が起こりつつあるのかもしれない。

2016年7月9日土曜日

能力の差

人間の能力にはかなりの差があり、それは学生時代からはっきりと露見している。先日、教育格差というタイトルで記事を書いたが、それをまた実感する光景を目にした。

私はよく公民館的な場所で——仮にプラザとする——原稿を書いているのだが、その近所の高校が試験期間に入ったことで、平日の日中であっても制服姿の高校生が集まってくるようになった。普段はお年寄りばかりだが、ここ一週間ほどはほとんど学生らで席が埋まっている状態だった。

そこで、二種類の高校生がいることに気がついた。一方はまともに試験勉強に取り組んでいる人々。彼ら彼女らは模範的に勉強に取り組んでいた。一人用の席でもくもくとやっている者もいれば、四人掛けのテーブルについて相談しながらやっている者もいた。こないだ私の隣のテーブルにいた女子高生二人は二進法についてああだこうだとしゃべりながらやっていて、私はそんな光景を感心しながら見ていた。

そんなまじめな学生が多数の中、全体の二割ほどではあるが、不真面目な高校生もいた。こちらの人々はそもそも席に着かず、大きな階段のような場所に陣取り、座ったり寝そべったりといっただらしない恰好でずっとおしゃべりに興じていた。私がいた二時間弱のあいだ、彼らはまるで勉強するそぶりを見せなかった。

勉強せずにただおしゃべりに興じる。それは、プラザにおいてルール違反ではない。マナー違反でもない。そういうこともしていい場所だ。だが、わずかな距離をへだててしっかり勉強する一群とそうでない一群を見比べ、ここでも能力の差というものを強く実感した。

階段でだべっていた彼らの何が劣っているのか。それは、プラザに来ているのに勉強していない点だ。もし勉強がいやならいやで、家やどこかの娯楽施設で遊べばいい。それならいい。しかし、そこへ来ているという時点で、十中八九、仲間内では勉強しようという話になっているはずなのだ。なのに、いざ来てみると、勉強していない。ここに、彼らの不徹底さというか、優柔不断さを見る。

また別の話だが、家や部屋の片付けというのも如実に能力が反映される。今日は新しくある生徒の家庭教師を担当することになり、その家を訪れた。まだ築五年ほどであろう、新しくてそこそこ大きな一軒家だった。庭から玄関、階段からリビングへ通されたのだが、きれいに整理されており、余分なものが少なかった。

ここでの比較対象は私の実家だ。私の実家にはものが溢れている。築二十年ほども経つから、ある程度ものが増えるのは仕方ないが、それにしても、ところどころ動線を妨げる形で荷物が置かれていたり、掃除の手が行き届かなくて汚れが沈着しているような箇所もある。家や部屋に、適性な量のものを配したり、掃除のしやすさを考慮して家具を置いたり、そういったことができるかどうかも一種の技術であり、能力の差である。これによって生活の利便性やクオリティーも変わってくるだろう。

このように、さまざまな面で人間の能力の差というのは生じている。しかも、能力を伸ばそうと意識している人間は、あらゆる面で、それこそ片付けや掃除といったものにおいても、その能力を伸ばしてゆく。そもそも、物事を技術として捉えることすらしていない人間は、たとえ五百年生きたとしても、何ひとつ身につけることはできないだろう。能力の差というのは広がる一方だ。

そして、今後の社会では個人の能力の差というのがこれまで以上に大きな意味を持ってくるだろうと思う。有能な者は生き延び、無能な者は淘汰されて死んでいく。それは残酷な世の中だ。けれども、ある意味では清々しい、爽快な世界だ。そういう場所で生き延びていきたい。