前回書いたこととの関連で、教養とは何かという問題に興味を持ちました。そこでさっそくアマゾンで注文して読んだのがこちら。竹内洋『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』(中公新書)。
内容は、戦前の旧制高校における教養主義についての分析、それから新制高校になってからの教養主義の変化、そして学生運動を経てその後学生にとっての教養、あるいは教養主義がいかに変化・没落したかという考察です。データが駆使され、最初から最後まで一貫性を持って書かれている硬派な良書でした。
とりわけ序盤では、旧制高校の学生たちがどのような本、雑誌を読んでいたか、教養についてどんな態度を取っていたかということが語られております。時折、むかしの高校生・大学生はよく勉強したと言われることがありますが、注目すべきは、その勉強量というより、硬派な教養に対する態度、尊敬の念です。どうやらそこには、現代において失われたある種のイズム、まさに教養「主義」と称すべきものがあったようです。
つまり、それは当時の学生にとっては当然のものであり、取り立てて教養を積む意味を問うことはあまりなかったようなのです。カントを読み、ベートーベンを聞き、ドイツ語のジャーゴンを駆使している奴はえらい、かっこいい。それは自明のことであり、ではなぜカントを学ぶのか、ベートーベンを聞くのかは考えていなかったらしい。
そこで考えてしまうのは、教養主義がまさに没落した現在において、そのような硬い教養に手を出すことにどういう意味があるのかということです。私自身は哲学科に在籍して学んでいたわけですが、他の学部・学科の人からすればただの好事家であったかもしれません。あるいは、実学をやる人からすればカビ臭い学問に耽溺するオタク、または現実逃避の徒だったかもしれない。
実際、いまの世の中における哲学や古典文学の扱いというのは芳しいものではありません。理解のある人もいますが、一般的な了解としては「変わった趣味」ぐらいに捉えられている気がします。もし何か学ぶなら、ITや金融や英語、読むのなら啓蒙書やビジネス書というのが大勢でしょう。旧制高校的な教養は実用からはほど遠い。
では、それは娯楽なのだろうか、エンターテイメントなのだろうか、とも考えます。たしかに、楽しいからそういう教養書に触れるという人も多いはずです。私もある面ではそうでした。しかし、と考えてしまいます。では、ショーペンハウアーやゲーテを読むのと、アニメを見たり漫画を読むことはまったく同じなのだろうか? ただ選択肢のちがいに過ぎないのだろうか? こう自問すると、やはりイエスとは言いがたいものがあります。
実用のためでもなく、さりとてただの娯楽でもない。では、教養とは何なのか?
結局、この問題は今後も考えなければならないようです。
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