2014年11月18日火曜日

面白がる技術

世の中には面白いものがたくさんあります。小説、エッセイ、映画、アニメ、漫画、ゲーム、SNSなどなど。退屈さに満ちた日々の生活の中で、私たちはこれらを励みにして生きています。どれもこれも、それぞれちがった楽しみを与えてくれるものです。

人によって、どれが好きかはそれぞれでしょう。活字が好きで本の虫という人もいれば、ネットゲームにどっぷりハマっている人もいる。どのメディアも独自の特長があるわけですから、人によって選ぶものはちがってくる。

こういう状況の中で、私たちはよく、好みは人それぞれだと言います。趣味はちがうし好みもちがう。同じ映画にしても、派手なハリウッドのアクションが好きだという人もいれば、ヨーロッパの芸術的な映画が好きという人もいる。それでいいのだと思っています。

ですが、本当にそういう相対主義的な捉え方でいいのでしょうか。この頃、そういう疑問によく捕われます。人によって好みがちがい、面白いと思うものもちがう。そこに優劣はない。ただこれだけなのか。どうもちがうような気がしています。何かを面白がるというのも実は技術であり、その技術には優劣があると思うのです。

面白がる技術。これは、テレビや漫画のような大衆向けの娯楽ではあまり問題になりません。だれでも、ほとんど何の知識も修練もなしに楽しめるように作ってあるからです。ですが、たとえば古典文学や芸術的な映画などになると、面白がれる人とそうでない人の区別が出て来る。わかりやすい例で言えば、もしある映画のシーンに過去の名作のオマージュが出てきたとき、それを知ってるかどうかで楽しみ方は変化するでしょう。そこではある程度の知識・修練が必要とされています。

私は、割と最近までは、こうしたことを意識していませんでした。自分にとって面白いものが面白いもので、つまらないものはつまらない。そういう自分を基準にした発想しかなかったのです。まさかそれが客観的に正しい評価基準だとは思っていませんでしたが、その自分の基準自体を疑ったり成長させたりということはほとんどなかった。

しかし、そのやり方でいくと、新たに面白いものを発見できる確率が下がってしまいます。もし、少しがんばって面白がる技術を修練すれば、その面白さに開眼できたものを、自分の未熟な基準で最初に判断して切り捨ててしまえば、もうそこでおしまいになってしまうのですから。

もちろん、クリエイターとしてはなるべく多くの人に楽しんでもらえるものを作るのが基本姿勢でしょう。それがプロとしての務めではある。ですが、わかりやすさばかりを追求すれば、結局、本当の面白さが損なわれてしまう。今のテレビ番組というのはこういう事態におちいっているのではないでしょうか。だから、わかりやすいものを志向しつつも、それによってコンテンツに内在する面白さを毀損してはいけないのだと思います。

再び享受する側から言えば、私はまだまだ面白がる技術を磨けていない。ということは、この世に存在する面白いものを発見できていないことになる。というわけで、これからも面白がる技術をどんどん磨き、これまで素通りしてしまった、本来面白いものを享受できるようになりたいと思います。

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