もうここ三ヶ月ほど、実生活の方で劇的な変化が生じており、ワナビ活動の方は開店休業状態になっているのですが、それでもときどき創作に関してはつらつらと考えておりまして、この頃の自分のテーマは「伝わらない」ことの面白さです。
コミュニケーションというものについて、ここ数年かまびすしく議論されています。よく語られる文脈は、就職活動におけるコミュニケーション能力、通称コミュ力の大切さ、です。どこかの機関が調査したら、会社が人材採用のときにもっとも重視するのはコミュ力であった。そんな記事をネットで見かけたりします。
そんな具合に、コミュニケーションに関して語られるとき、いつも主張されるのはコミュ力の大切さであり、伝えることの重要さです。コミュニケーションは十全に機能することがよいことで、そのための技術をあげようというのが巷間語られるものであります。たしかに、実生活ではそうでしょう。
けれども、こと創作やエンターテイメントについて考える場合、事情がちがってきます。この頃よく思うのです。
コミュニケーションは、伝わらない方が面白い。
思考や感情、論理や価値観、そういったものが十全に伝わらない状況の方が、私は好ましいと思います。社会生活上はこまったことになるでしょうが、面白いか面白くないか、ドラマチックかそうでないか、そういう観点で見れば、伝わらない方がいい。
たとえば小説における人物同士の会話でも、お互いをわかりあっていて、何を言っても通じ合う場合というのはまったく面白くない。そこにはドラマが産まれません。ドラマチックになるのは、そのやり取りに誤解があったり、感情的対立が産まれたり、温度差があったりする場合です。
現在、私は小谷野敦の『悲望』という小説を再読しているのですが、この作品でもやっぱり伝わらないからこそ面白さが産まれている。主人公の大学院生の青年は、院の後輩の女の子に想いをよせ、やがてストーカー化していくのですが、熱烈な想いが相手に届かず、手紙を出しても気持ち悪がられ、やがては会話すらまともにできなくなっていくからこそ面白いのです。もし想いが相手に伝わって、そのままお付き合いすることになったり、あるいはそこまで行かずとも、面と向かってきちんと対話できる関係が整ってしまったら、この物語は微塵も面白くないでしょう。
物語には葛藤が不可欠というのはストーリーテリングについてよく言われることです。そして、コミュニケーションの不全というのは、葛藤を生み出す非常に便利な手段です。したがって、物語には、「伝わらない」ことの面白さが不可欠だと思います。
今後もしばらく、伝わらないことがいかに面白いか、物語にとって重要か、そんなことを考えていきたいと思います。
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