以前、トマス・ピンチョンについて軽く書いた。
ピンチョンというのはアメリカの作家だ。現在、たしか八十歳くらい。ポストモダン文学の巨匠だの、ノーベル文学賞候補の常連、はたまた文学の怪物だなどと称されている。寡作ではあるのだが、一作ごとのボリュームが凄まじい。翻訳を上下巻合わせたら8,000円越えなんてのもある。質もそりゃたいそうなもので、発売されてすぐ古典文学並の扱いを受け、学者たちがこぞって研究するとかしないとか。とにかく、現代世界文学の大物だ。
そのピンチョンの著作、『ヴァインランド』というのを読んでいる。彼の作品の中では比較的とっつき易いと言われており、ボリュームも一冊で完結しているのでそれほどではない。が、あくまでそれは「ピンチョン作品としては」の話。他の作家のものと比べれば十分に重厚で長大だ。そのため、五年前にチャレンジしたときは弾き返された。五十ページほどでギブアップし、私は古書店でそいつとさよならしたのだった。
が、あれから時がたち、再び書店にて『ヴァインランド』を購入。今度はすごかった。あっという間に引き込まれていった。同じ本で、大人になってから挫折したものに、こうまで違う印象を抱くとは、正直不思議ですらあった。だが、彼の細部へのこだわり、独特の比喩、しれっとした誇大妄想的な嘘、ダウナー系の愛すべきダメ人間たちの言動が、私の琴線にビンビンと触れてきたのだ。
たとえばこんな描写がある。ある海岸近くの丘の上、元修道院だった館の中に、おかしな女の集団がいる。そこで集団生活を営んでいる。彼女らはくの一なのだ。忍者の秘術を習得し、維持し、さらには料金を取って広めている。あるいは、DLという女がいて、そいつは日本へ渡ってくると、ヤクザとも繋がりのあるアウトサイダーな武術の達人に弟子入りし、さまざまな忍術を会得する。そうして八面六臂の活躍。はたまたとある建物が、明らかにゴジラと思しき怪物に踏みつぶされて全壊したり、空をゆく飛行機に謎の飛行物体が横付けしてパーティーの邪魔をしたり、まさしくパラノイアのような展開が相次ぐ。
さて、今回言いたいのは、ピンチョンがおもしろというだけではない。それは、タランティーノ映画との類似。デビュー作の『V.』を読んだとき、私は「パルプフィクション」を連想した。細部のフェティッシュな、もったいぶったような描写、本筋と関係のない枝分かれ的な展開と登場人物たちの口論、時間軸の行ったりきたり、いくつかの筋の転換と交錯、バイオレンスやエロを淡々と、しばしばコミカルに描く語り口、そんなものが二つには共通していた。
そうして『ヴァインランド』からは、「キル・ビル」に似たものを感じた。というより、これはもう明らかに影響関係がありそうだと思った。上にも書いた、白人の女が日本で武道の訓練を受けるだとか、アメリカから見た奇妙なニッポンを好きなだけ描くだとか、かつて関係のあった男をこんどは倒しに行くだとか。雰囲気や手法だけでなく、モチーフのレベルでもこの二つは似ていた。ネットで軽く検索したところ、タランティーノはピンチョンからの影響について公言はしていないらしいが、偶然似たにしてはできすぎている。
コンテンツというのは、映画にせよ小説にせよ、独立に存在するものではない。ニュートンが「私は巨人の肩に乗っている」と言ったように、創作だって、過去の偉大な作品群のもとになりたっている。明らかなオマージュがあるとかないとかは関係ない。そんな影響関係も意識していけばより作品を深く味わえるだろうし、「取り入れ方」の参考にもなるはずだ。
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