2014年12月6日土曜日

鬱なのでとことん鬱になってみる

とかくこの世はままなりません。

さまざまに希望や期待を抱いていても、そのほとんどは叶わない。かつて、あれやこれやと夢想していたパステルカラーの未来は、気がつくと跡形もなく消えています。「あれ、こんなはずじゃなかったのに」。心の中でひとり、そんな紋切り型の台詞をつぶやいたりします。けれども、こんなはずもどんなはずもない。あるのはただこのグレーな現実ばかり。

いつかきっと、幸せが舞い込んで来る。輝かしい未来が自分を待っている。根拠もなく、漠然と、そんな気がしていたものです。いつかどこかで、素敵な生活が送れるにちがいない。夢を実現させ、羽ばたいていけるにちがいない。しかし、待てど暮らせど、舞い込んで来るのは不幸ばかりです。羽も一向に生えてきません。

たとえば、女の子にモテたいなんて思っていたことがありました。かわいい女の子と親しくなって、デートを繰り返し、彼氏彼女の関係になって、やがては熱い夜を過ごす。そんな夢を思い描いていたこともありました。街を見渡せば、そんな関係と思しき男女が自動販売機よりたくさん目に入る。友人の中にも、異性とお付き合いしている者はたくさんいる。中高生だって普通に男女交際というものをしている。なのに、それだけありふれた行為なのに、ついぞその希望は叶わないのでした。

「おい、どうなってるんだ。このモテなさ、いったいだれが責任を取ってくれるんだ?」。ついそんなクレームを付けたくなります。どこかにこの悲劇の元凶がおり、そいつの首根っこを掴んで恫喝してやりたくなります。けれども当然、そんなクレームを付ける相手などおりません。いるとすればそれは自分自身だけ。

では、モテないことに関しては諦めよう。諦めてやろう。それは自分にも非があるのだし、嘆いたって仕方がない。けど……と、つい考えるのです。このモテないつらさ、悲しさをだれかに分かって欲しい、と。いえいえ、しかしすぐさま、それすら贅沢な望みだということがはっきりしてきます。だれも、私がモテなくて苦しんでるとか、悲しんでるとか、そんなことに興味はないのです。そもそも、そんな個人的なことに興味を持ってもらえるくらいなら、モテているでしょう。モテないとは、モテないことすら無視されることです。

少しモテるモテないの話に傾き過ぎましたが、他の事柄でも同じ。お金がなくてきつい、第一志望の学校に入れなかった、希望の職業に就けなかった、すべてそれだけでもつらい。だけど、そのつらさはだれが癒してくれるでもなく、理解してくれるでもないのです。ただ、自分でつらがるしかありません。

「むかし、こんな苦しい時代があったんです」。そんな話をして聞いてもらえるのは、ごく一握りの者だけです。成功したから、多くの人に、苦労時代の話に興味を持ってもらえるのです。メディアで語る意義も出てくるのです。成功していない人間に苦労時代の話なんてする機会はない。苦労時代なんてない。あるのはただ苦労のみです。終わりの見えない苦労のみ。

いえ、ちがいますね。終わりが見えないわけじゃない。確実に終わるときは来る。そう、死ぬときです。死は必ずいつかはやってくる。どんなに不幸続きだろうと、終わりはあるのです。死という終わりが。それだけが心の支えです。

生きる苦しみや不安の多くは、自分と他人を比較することから生じるものと思われますが、しかし自分より上だと思って妬んだり羨んだりしてた人も、やがては死にます。片想いしてた女の子と付き合ってた憎らしい男も死にます。片想いしてたその子も死にます。私よりいい大学に行った友人、大手企業に入社した知人も死にます。一流企業に入ろうと零細企業に入ろうと、結局はお墓に入ります。美人もブスも、イケメンもブサメンも、やがては大差ない皺くちゃババアジジイになって灰になります。

死んでしまえば、もはや生前のことなど関係ありません。生きてた頃どんな人間だったか、どんな苦労をしたか、どんな夢を持っていたか、そんなこと、世の中にとってはどうでもいいことです。子どもや孫がいれば、たまに話にのぼることもあるでしょうが、それだけです。死んで百年も経てば存在すらだれも知らないでしょう。

ままならない世の中で生きて、右往左往して、やがて死ぬ。それだけのことです。

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