2016年6月24日金曜日

教育格差

子どもたちに教育格差が広がっていると言われている。親に経済力があればその子どもは私立の学校に通ったり塾に行けたりする一方で、そうでない親の子は、良質な教育を受けられないという話である。このごろは、経済的な問題で大学進学を諦めざるをえないといったことも聞く。

しかし、私が感じているのは少し別の教育格差だ。

私は現在、家庭教師をやっているが、先日、ある一人の生徒が辞めた。中学三年生の男の子で、成績は下の下。公立の中学校に通っていて、定期テストではクラスの下から三番目あたりという子だった。とりわけ数学はひどく、小学校のドリルからやらせねばならないという惨状だった。

だが、問題だったのは勉強のできなさではなかった。むしろ、向上心のなさだった。いま勉強ができないことはたいした問題ではない。いまできずとも、少しずつ努力していけば、成績はあがるはずだった。実際、地頭がそれほど悪いとも思えなかった。だが、彼は私が課したわずかばかりの宿題もやらず、最後には指導中にも言うことを聞かなくなり、勉強を放棄してしまった。

こういう生徒はたまにいるが、すごく不思議に思う。一方では、宿題をちゃんとやり、私が言うことをしっかり聞いて理解し、自分から質問してくる子どもがいる。そういう子のためには私の方もミニテストを作ってきたり、授業の準備に時間をかけたり、いろいろと手を焼くようになる。他方で、だめな生徒に対してはこちらもやる気がなくなり、労力も使わないようになる。

つまり、家庭教師を雇えるかどうかという格差ではなく、雇った家庭の子どもの中に、圧倒的な格差が生じているのだ。

これは学習塾でも強く感じていた。学習塾の費用は決して安くない。どの家庭もかなりの負担をしている。だが、できる子どもはその費用をはるかに越えるほど、塾と先生を使い倒す。授業は真剣に聞き、自習のために足繁く通い、先生を質問攻めにする。もっと問題を解きたいと言って教材のコピーを頼む。その一方で、できない生徒はいっさい質問をしないし、自習もろくにせず、むしろ教師との関係を悪化させてストレスを溜め込んだりする。怒られて泣いてたりする。だが、かかる費用は同じなのだ。

同じ教育の機会を与えられていても、その活かし方はできる人間とできない人間とで天と地ほどの差がある。この差は途方もなく大きい。中学生ではもう歴然とした差が生じ、その差は歳を重ねるごとに双曲線のように広がっていく。

幼いころの能力の差が、長きにわたる将来を決定してしまう。残酷な話だ。

4 件のコメント:

  1. 教え方が悪いんでしょう

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    1. それもあるでしょうが、生徒ごとに学ぶ力はだいぶ違うと思います。私の教え子に限らず、学生時代の同級生などを思い出してもそう思います。

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    2. ざっと読んでみた感じ、私にはあなたが、もとから足の速い犬が好きだといってる風にしか思えませんね。
      あなたが教えてるのは足が速くなるかもしれない犬なのに。
      あと向上心というか納得でしょうね。
      色んなことに納得するのが遅い人もいるのですよ。特に子供なら尚更で、道具主義のさばさばした子役みたいな子とか少数派であろう勉強の好きな子ばかりじゃないのですよ。
      まあ、別にどうでもいいですけどね。

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  2. 「足の速い犬」が好きというより、「足が速くなろうとする犬」が好きという方が正確です。まあ、私個人の好悪は主題ではないのですが。

    教師としては、生徒の潜在力を伸ばしてやろうと努めるのが当然です。しかし今回言いたかったのは、それでも向上心というか吸収の早さというか、そういう差はあるよなーということです。もちろん、生育の途中でいろんな変化があることは認めますが。

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