2014年12月26日金曜日

ダメ男が女性受けする理由

今年、お笑いではどぶろっくと日本エレキテル連合が大人気を博しましたが、そこでつらつらと、なぜこの二つが日本人にうけたのか、理由を考えてみました。そこで気づいたこと。それは、どちらもダメ男を題材にしているということです。

どぶろっくの歌は意識過剰な男の妄想であり、エレキテルの方は寂しい中年男性を題材にしたコントです。どちらもあまりもてそうもない男性をモチーフにしております。ここに何か鍵があるにちがいない。

そこでしばらく考えて思い至ったのは、そういうもてない男、ダメな男を主題とすることが、女性に対するある種のおべっか、お世辞になっているのではないか、ということです。男性と女性によって構成される恋愛市場の中で、男性を劣位のものとして描けば、それは相対的に、女性を優位に押し上げることになるでしょう。これが世の中の女性に快く受け入れられたのではないか。

同じような構造のものとして、森見登美彦の作品も挙げられるかもしれません。彼の作品もヘタレ男子大学生を主人公として、その生態を描いたものですが、女性うけがいい。やはりこれも、男の地位を下げてみせることで、女性読者の心理をくすぐるものになっているのだと考えられます。

また、今年はアナと雪の女王もメガヒットを記録しましたが、これも考えてみると女性のつよさを描いたものでした。作中ではひどい男(王子様)がアナによってこらしめられるのです。そして、この作品も主に女性客にアピールしたのでした。

では、なぜこうした女性を持ち上げたコンテンツが流行したのかと言えば、それはやはり、現実には恋愛というゲームの中で女性がだんだん劣位に置かれてきたからだと考えられます。バブル期には恋愛において女性が最高度に優位におりましたが、その後、女性は恋愛市場においてじょじょにパワーを失ってきています。そうした現実における不満感が、逆に、女性のつよさと優位を描いたフィクションがはやる素地になっているような気がいたします。

2014年12月12日金曜日

野性時代フロンティア文学賞 今年も一次通過

タイトル通り、喜ばしい結果となりました。一次通過です。

振り返ると、今年は新人賞に合計で4本応募しておりました。そのうち すでに3本は一次でボロボロ落選という体たらくだったのですが、年末も迫るきょう、野性時代1月号をチェックしたら拙作が一次を通っておりました。この賞は昨年も一次を通過していたので 二度目ということになります。

二次選考の発表は来月号ですので、年末年始はわくわくどきどきはらはらしながら過ごすことになりそうです。

ちなみに、今年は応募総数が840本とありました。昨年は973作品だったので、130もの減少ということになります。賞金額が300万から100万に下がったためなのでしょうか。あるいは他の要因が……? ともあれ、応募総数と受賞のハードルは必ずしも比例しないのですけどね。

昨年は二次で落選しましたが、こんどは通ってるといいな。


ちなみに、当ブログからリンクを貼らせてもらっている常木らくださんとハットリミキさんも一次通過しておりました。他にもツイッターで交流のある方が二人ほど通過しており、なんだか賑やかで嬉しいです。

2014年12月6日土曜日

鬱なのでとことん鬱になってみる

とかくこの世はままなりません。

さまざまに希望や期待を抱いていても、そのほとんどは叶わない。かつて、あれやこれやと夢想していたパステルカラーの未来は、気がつくと跡形もなく消えています。「あれ、こんなはずじゃなかったのに」。心の中でひとり、そんな紋切り型の台詞をつぶやいたりします。けれども、こんなはずもどんなはずもない。あるのはただこのグレーな現実ばかり。

いつかきっと、幸せが舞い込んで来る。輝かしい未来が自分を待っている。根拠もなく、漠然と、そんな気がしていたものです。いつかどこかで、素敵な生活が送れるにちがいない。夢を実現させ、羽ばたいていけるにちがいない。しかし、待てど暮らせど、舞い込んで来るのは不幸ばかりです。羽も一向に生えてきません。

たとえば、女の子にモテたいなんて思っていたことがありました。かわいい女の子と親しくなって、デートを繰り返し、彼氏彼女の関係になって、やがては熱い夜を過ごす。そんな夢を思い描いていたこともありました。街を見渡せば、そんな関係と思しき男女が自動販売機よりたくさん目に入る。友人の中にも、異性とお付き合いしている者はたくさんいる。中高生だって普通に男女交際というものをしている。なのに、それだけありふれた行為なのに、ついぞその希望は叶わないのでした。

「おい、どうなってるんだ。このモテなさ、いったいだれが責任を取ってくれるんだ?」。ついそんなクレームを付けたくなります。どこかにこの悲劇の元凶がおり、そいつの首根っこを掴んで恫喝してやりたくなります。けれども当然、そんなクレームを付ける相手などおりません。いるとすればそれは自分自身だけ。

では、モテないことに関しては諦めよう。諦めてやろう。それは自分にも非があるのだし、嘆いたって仕方がない。けど……と、つい考えるのです。このモテないつらさ、悲しさをだれかに分かって欲しい、と。いえいえ、しかしすぐさま、それすら贅沢な望みだということがはっきりしてきます。だれも、私がモテなくて苦しんでるとか、悲しんでるとか、そんなことに興味はないのです。そもそも、そんな個人的なことに興味を持ってもらえるくらいなら、モテているでしょう。モテないとは、モテないことすら無視されることです。

少しモテるモテないの話に傾き過ぎましたが、他の事柄でも同じ。お金がなくてきつい、第一志望の学校に入れなかった、希望の職業に就けなかった、すべてそれだけでもつらい。だけど、そのつらさはだれが癒してくれるでもなく、理解してくれるでもないのです。ただ、自分でつらがるしかありません。

「むかし、こんな苦しい時代があったんです」。そんな話をして聞いてもらえるのは、ごく一握りの者だけです。成功したから、多くの人に、苦労時代の話に興味を持ってもらえるのです。メディアで語る意義も出てくるのです。成功していない人間に苦労時代の話なんてする機会はない。苦労時代なんてない。あるのはただ苦労のみです。終わりの見えない苦労のみ。

いえ、ちがいますね。終わりが見えないわけじゃない。確実に終わるときは来る。そう、死ぬときです。死は必ずいつかはやってくる。どんなに不幸続きだろうと、終わりはあるのです。死という終わりが。それだけが心の支えです。

生きる苦しみや不安の多くは、自分と他人を比較することから生じるものと思われますが、しかし自分より上だと思って妬んだり羨んだりしてた人も、やがては死にます。片想いしてた女の子と付き合ってた憎らしい男も死にます。片想いしてたその子も死にます。私よりいい大学に行った友人、大手企業に入社した知人も死にます。一流企業に入ろうと零細企業に入ろうと、結局はお墓に入ります。美人もブスも、イケメンもブサメンも、やがては大差ない皺くちゃババアジジイになって灰になります。

死んでしまえば、もはや生前のことなど関係ありません。生きてた頃どんな人間だったか、どんな苦労をしたか、どんな夢を持っていたか、そんなこと、世の中にとってはどうでもいいことです。子どもや孫がいれば、たまに話にのぼることもあるでしょうが、それだけです。死んで百年も経てば存在すらだれも知らないでしょう。

ままならない世の中で生きて、右往左往して、やがて死ぬ。それだけのことです。

2014年12月1日月曜日

ボイルドエッグズ新人賞落選

9月末に応募して以来、どれほどこの時を待っていたことでしょう。とうとうボイルドエッグズ新人賞の結果発表と相なりました。

結果は、落選!

正直これはショックです。かなり自信作だったし、内心「これは受賞じゃないか」と思っていただけに。二週間ほど前から電話が鳴るのを心待ちにしていたのですが、結局鳴らず。しかも、この賞は惜しかった作品に講評でアドバイスがあるのですが、そこでも言及なし。厳しいもんです。

ではどんな作品が受賞したのかと言えば、今回は「該当作なし」という結果でございました。応募しただれもが落選。ボイルドエッグズ新人賞は以前こういうことがちょいちょいあったのですが、ここ数年は毎回受賞作を出していただけに少し意外です。

けど、前回の受賞者の作品は雑誌・新聞など多くのメディアで取り上げられていますし、この賞はワナビにとってはかなり狙い目だと思います。ジャンルは幅広いですし、必ず代表の村上さんが読んでくれますし、応募から発表までが早いですし、いいことがたくさん。おすすめです。私も、次こそは獲れるよう精進します。

ああ、でも今年はことごとく落ちているよ……。

運も実力のうち

賞に落選すると、ついこんなふうにつぶやきたくなります。

「運が悪かった……」と。

とりわけ自信作が一次選考ではじかれると、どうしてもそんな思いが湧いて来る。もちろん、たいていそれは負け惜しみであり、実際には実力不足に起因するものでしょう。落選という事実は謙虚に受け止めるのがベストだと思います。

とはいえ、それでも運によって左右される部分はあるでしょう。非常に公平性が担保された大学の一般入試でさえ、やはり運の要素は関わってくるのですから。いわんや新人賞においてをや。事実、ある賞で落選したものが別の賞で受賞ということもままあります。

もちろん、質が一定のハードルをクリアしていることは前提です。いい作品が不運によって落とされることはあるでしょうが、不出来なものが幸運で受賞ということはまずないでしょう。ということで、質はいいというのは前提とします。けど、その上でなお、運に左右されることはありうると思う。

ではどうするか。

よく「運も実力のうち」などと言いますが、そう言って運を天に預けるだけでは芸がありません。発展性がありません。ここは、数にものを言わせるべきではないかと思います。質を高める以外に手を打つなら、数に訴えるしかない。

例として、とても単純な確率を考えてみます。

サイコロを1回振ったとき、1の目が出る確率はもちろん1/6です。約17%。1回振っただけではなかなか目的の目は出ません。

では、4回振ったらどうか? 4回振って1の目が少なくとも1回出る確率。それはこうなります。

1-(5/6)^4=1-625/1296=671/1296≒0.52

(「4回中、最低でも1回1の目が出る」の余事象は「4回中、1回も1の目がでない」なので、こういう計算)

答えは約52%。1/2を越えます。

これが6回なら約67%で、10回ならば約84%となります。かなり現実的な数字になってくるのです。当たり前っちゃ当たり前ですが、試行の回数を増やせば、目的の目を出せる確率はグングン上がってくる。

というわけで、「運も実力のうち」という言葉、考え方は、ややもするとオカルト的になってしまいますが、正しく捉えるなら、重要な示唆を与えてくれるものだと思います。つまり、運=確率を上げるには数を打つのが効果的で、それができるのも実力のうちだということです。

結論! いっぱい書こう!