2013年5月31日金曜日

傘にもの申す

いよいよ今年も、梅雨に入ったようです。

知らない人のために説明すると、梅雨というのは、五月から六月くらいにかけて、連日雨ばかりが降る一定期間のことを言います。暑い夏にそなえてダムに水をためる絶好の機会ではあるのですが、いかんせん、じめじめしてて鬱陶しい時期です。

雨を防ぐためには、傘という道具があって、わたしたちはこれを用いるわけですが、しかし、ひとつ言いたいことがある。言わねばならないことがある。

傘って、雨を防ぎきれてないよね?

いや、わかっています。これが非常に空気を読めてない発言であることは、承知しているのです。これだけ世界中で雨対策として傘が使われており、とりたてて不平も出ていないなかで、こんなことを言うのは、実に不適切だとは思うのです。

しかし、傘をさしたところで、はっきり言って、お腹から下あたりはそこそこ濡れますし、足下なんか、かなりびしょ濡れになります。完全に無傷で済んでるのは顔と肩と胸くらいではないでしょうか。畳むときには、結局手も濡れますしね。

いえ、わかっているんです。そのくらい、許容すべき、妥協すべきことだってこと、わかってるんです。これまでの人類史において、人々はみな、このくらいのことは多めに見て、がまんしてきたのだ。そのくらい、濡れたうちに入らんのだ。上半身がほぼ濡れてないなら、それで十分じゃないか。そう思って、傘のお世話になってきたのでしょう。実際、わたしも世話になっている。ありがたいと思っている。でも、それでも、一応は、言っておきたいのです。

傘って、雨を防ぎきれてないよね?

ああ、どこからともなく、お叱りのことばが聞こえてくる。そんなことを言うなら、おまえは傘を使うな。ずっと濡れていろ。あるいは、雨の日は外出しなきゃいいだろ。いい加減大人になれ。そんな叱責が聞こえてくる。

でも、それは極論というもの。感情としては理解できますが、もっと理性的に、合理的に、考えましょう。要するに、そのような傘の不完全さを補完してやればいいのです。そうすれば、人類は雨の日でももっと乾いていられるのです。

では、考えてみましょう。

なぜ、傘をさしていても下半身が、とりわけ足下が濡れるのかといえば、その主たる原因は地面からはねる水にあります。とすれば、足が地面から離れていればよい。浮いておればよい。ならば、傘に飛行機能を搭載致しましょう。傘の骨をもっと頑丈にし、円周の部分に小型のジェットを下向きに取り付け、柄の先にあるスイッチを押すと飛べるようにするのです。

そしたら、雨の日は、みんながメリーポピンズ。きっと、街中がメルヘンな光景になることでしょう。街の上空を飛び交う赤、青、黄、緑、紫などなどのカラフルな無数の傘たち。空中で交わされる、ほがらかなあいさつ。梅雨のあいだも、みんなみんな、スーパーカリフラジェイルスティックイクスピアリドーシャスな気分でお出かけができます。素敵ですね。

このアイデアの唯一の難点は、傘にしがみつくのに、かなりの腕の力が必要というところでしょうか。筋トレを、がんばりましょう。

2013年5月30日木曜日

幽霊ブーム

どうやら、幽霊ブームが到来しつつあるようです。

昨年あたりから、幽霊をメインに据えたテレビドラマが放映されたり、そういうたぐいの小説がちょこちょこ出たりしています。あるタレント学者が、「人間は孤独になると幽霊の存在を信じるようになる」と述べておりましたが、この孤独の時代において、幽霊に興味を持つひとの割合が増えているのかもしれません。

しかし、幽霊という存在は、なにもここ最近だけ注目されているわけではなく、古今東西ありとあらゆる文化の中にあったものです。シェイクスピアの作品にも、幽霊は重要な役どころとして登場いたしますし、わたしの敬愛する、あのごりごりの理性主義者イマニュエル・カント先生も、幽霊の存在には無関心でいられず、『視霊者の夢』という幽霊に関する独立した著作をものしております。

さらには、その弟子筋にあたるショーペンハウアーも幽霊については書いておりますし、発明家のエジソンが晩年に降霊術にのめりこんだというのは有名な話。つまり、どんなに頭脳明敏で合理的な思考をする人でも、幽霊をあたまから否定することはできないのです。それほど、幽霊というものは、人間にとってなにか根源的なものなのでしょう。

そして現在、幽霊は恐怖の対象としてではなく、むしろコメディの題材として注目を集めておる。これは、のっからないわけにはまいりますまい。ここで一つ、わたしは、幽霊を主人公としたコメディ小説を書きあげ、一山当ててやろうと考えております。

と言いましても、わたしの執筆力では長編をひとつ仕上げるのはなかなか厳しい。つきましては、わたしの出すアイデアを参考に筆を執ってくれるゴースト・ライターを募集致します。報酬は、花と水とだんご五つでいかがでしょう。

2013年5月29日水曜日

ランキング参加

いましがた、写真をアップロードしたり人気ブログランキングに登録したりした。なかなか骨の折れる作業だ。

四、五年前の自分であれば、こんなことは苦もなくできた。が、かなりのブランクがあったため、画像をあげるのにもリンクを貼るのにもいちいち考えたりヘルプに頼ったりせねばならなかった。ああ、HTMLをがんがんいじってレイアウトを変幻自在にかえていた頃が懐かしい。

ともあれ、まずはランキング登録は成功したようだ。きっとあなたの今見ている画面にも、ランキングのバナーが表示されているだろう。ぜひ、クリックしていただきたい。そして、あなたがもし年頃の女性であるなら、わたしとお付き合いしていただきたい。

意味のないものをもっと

きゃりーぱみゅぱみゅが大好きだ。

なぜか。それは、彼女の曲が意味不明だからだ。リリースされた曲のタイトルをざっと見ただけでも、その意味不明さは際立っている。なんだ、CANDY CANDYって。なんだ、PONPONPONて。しかも、実際に聞いてみればいよいよ意味なんてものはなく、ただ概念とイメージの怒濤がわたしたちの脳髄になだれ込んでくるのだ。

ではなぜそんな意味不明のキ印な音楽にひかれるのかといえば、世の中には意味がありそうでないものばかりだから。政治家もメディアも各種のアーティストも、意味ありげなことばを羅列しておいて、その実質はきわめて空虚。そんなのが常態化しているこの国で、さいしょから意味不明の、というか意味のないものはさっぱりしてて爽快だ。

ゆえに、やや意味が汲み取れてしまう、ややメッセージ性のある曲はいま一つで、つけまつけるやファッションモンスターはおもしろくない。意味が少しでも入ってくると、意味がないという特長が一気に損なわれてしまうから。

きゃりーぱみゅぱみゅには、これからも、そう、新作のにんじゃりばんばんのような、空虚なイメージの洪水を世界に溢れ出させて欲しいものである。わたしも、がんばる。

2013年5月28日火曜日

マンホールに落ちて

ある日、少女がお外を散歩していると、マンホールが開けっ放しになっていて、うっかりそこへ落ちてしまった。

「いったいどこの誰がマンホールの蓋をしめ忘れたのかしら。危ないったらないわ」

少女は落ちながらぷりぷりと怒っていた。

「だけど、意外とマンホールの穴の中は落ちるのが遅いものね。ビルから落ちるのとは大違い」

なんて考えていると、やがて底へ到着。

目の前には細い通路が伸びていたので、そこを先へ先へ進んでいった。すると少女は、ついに暗く湿った場所から脱出して、草原へ出て来た。

「あれ。あたしは地下深くにきたはずなのに、どうして草原があるのかしら」

少女は不思議に思った。そこは、まるで地上のように明るくて空気が澄んでてひろびろとした場所だったのだ。

「よう、お嬢ちゃん」

ふいに、まっ黄色の肌をしたつり目ではだかの人が、少女に話しかけてきた。

「きゃっ!」

もちろん、少女はおどろいた。そんな黄色い人間なんて、これまで見たことも聞いたこともなかったからだ。おまけに、服は着てないしなんだかにやにや笑っているときたものだから、思わず叫んじゃったってわけさ。

「おどろかなくてもいいだろ。お嬢ちゃん、どこから来たんだい?」
「あ、あの、あたし……」少女はおずおずと答えだした。「上の方よ。マンホールから落ちて、それで、ここまで来ちゃったの」
「なるほどね」

それから、黄色い人は少女の姿を上から下までじっくりと眺めた。

「なにか?」
「いや、どうもあんた、変わったかっこうをしているね。なんだいその、全身に巻いてある薄い布は?」
「布? これは、Tシャツよ。下のはジーンズ」
「なんだかじゃまくさそうだね。上の方ではそんなのが流行ってんのか」
「流行というか、ずっとむかしからよ」
「そうかい。不思議なこともあるもんだねぇ」
「そんなことより、上へ戻る方法を教えてくれないかしら? はやく戻りたいの」
「なぜ?」
「今日はあたしの誕生日で、夕方にはお友達を招いてパーティーをするのよ」
「なに、誕生日!」黄色い人はおどろいて言った。「いくつになるんだい?」
「十四歳よ」
「では、いまは十三歳という計算になるな」
「そうよ」
「で、生まれたときは何歳だったんだね?」
「え?」

少女は質問の意味がわからなくて、小首を傾けた。

「だから、生まれたときは何歳だったんだい?」
「そりゃ、ゼロ歳よ」
「なに!? ゼロ歳にしてもう外の世界へ出て来たというのかね、きみは! なんというせっかちなんだ」
「じゃあ、あなたは何歳で生まれてきたの?」
「おれが生まれたのはもう二十四歳になってからさ。だから、まだ生まれてから四年しかたってないんだ」
「でも、二十四年間もお母さんのお腹の中にいたら、さぞお母さんはたいへんだったでしょうね」

少女はそうやってあてこすりを言った。でも黄色い人はぜんぜん気にしているふうもなかった。

「だと思うだろ? 生まれてすぐ、おれは遅れてすみませんてあやまったさ。でも、遅れたおかげで母乳をやったり寝かしつけたり学校にやったりものを買ってやったりせずに済んで、むしろ助かったんだとさ。意図せざる孝行息子というわけだ」
「そう。ならいいけど……そうだ。そんなことより、どうやって上へ戻ったらいいの?」

少女はようやく本題を思い出して、あらためて訊いた。

「そうさな。上へ行くなら、あのネズミ野郎にたずねるのがいい。たしかいま、あいつはヤマジョギョを上へぶっ飛ばそうとしてるはずだ」

それから少女は、黄色い人に連れられて、草原の上を三十分ほども歩いた。すると、やがてちょっとした林が見えてきて、その手前には、銭湯の煙突のようなものが立っていた。そのてっぺんには何やらカエルみたいなものがはまり込んでいて、顔だけを出していた。

そして、煙突のようなものの周りには、足場のようなものが竹で組んであって、下の方には、少女の身長の五分の一くらいの生き物がちょこまかと忙しそうに走りまわっていた。

「ようネズミ、元気か?」
「おう、元気さ。わかったら今日は帰ってくれ。いまから打ち上げなんだ」
「うまくいきそうかい?」
「ああ、ばっちしだよ。わかったらさっさと帰ってくれ」

黄色い人は顎を上げて、煙突のてっぺんを見た。少女もならってそうした。上からは、あの変な生き物がぬぼっとした顔でこちらを見下ろしていた。

「あれが、ヤマジョギョっていう生き物なの?」
「ああそうさ」
「どうしてヤマジョギョは上へ行きたがってるの?」
「別に、行きたがってやいないさ。ただ、ネズミの実験台にされてるんだよ。お、そら、もうすぐ発射だぞ」

そのとき、ネズミがしっぽの先でマッチ棒をこすり、煙突の下から伸びる導火線に点火した。火はジリジリと導火線を伝わっていき、煙突の中へ隠れたかと思うと、ドッカーンッ! ものすごい音がして、ヤマジョギョが発射された。

ヤマジョギョは、牛のような低い声で叫び、手足をじたばたさせつつ、空の彼方へと飛んで行った。大きな体をしていたはずだが、ものの三秒で、ヤマジョギョは少女たちから見えないほど遠くへと消えて行ってしまった。

「よう、この変な布に巻かれた奴をだな、こいつで上へ飛ばしてやってくれなねぇか?」
「ええ? こっちは今一仕事終えたとこだぜ。やなこった」
「そこを助けてやってくれよ」
「なら、明日だ。明日やってやるよ」
「それじゃだめなの」少女は口を開いた。「今日はあたしの誕生日パーティーだから、今日中に上へ戻りたいの。お願いできないかしら」
「ちっ。困ったな。もう火薬がないんだ。今日中に打ち上げってんなら、今日中に火薬を調達してこなくっちゃならねぇ」

ネズミはめんどくさそうに言って頭をぼりぼりと掻いた。そして言うには、

「もし今日中に戻りたいってんならな、こいつで打ち上げるんじゃなくて、ジハンキモドキの巣へ行け。あそこに行きゃあ運び屋がいるから、いいルートを教えてくれるだろうよ」
「ジハンキモドキって? なにそれ?」
「行きゃあわかる。あとは黄色いのに案内してもらえ。おれは忙しいんだ。さっさと行け」

こうして少女は追い返されるようにして煙突をあとにし、黄色い人といっしょに歩き出した。ジハンキモドキなるものの巣をめざして……。


(たぶん、つづかない)

2013年5月27日月曜日

客引きをしよう

とりあえずいくつか日記を書いてみたが、どうだろうか。どうも、微妙に堅苦しい文章になってしまっている気がする。もっとくだけた表現で、わかりやすいものを書かなければいけない。ファミマのメロンパンてまじでフツーに超ヤバくねぇ?

私は、いずれはワシントンポストの主席コラムニストになるつもりだ。しかし、千里の道も一歩から、まずはここでよい文章を書けるようにせねばならない。と同時に、読者獲得につとめることも必要だ。目下、当ブログはネットの中でほぼ孤立しており、入り口といえば「乳毛」での検索ぐらいなのだ。これでは、いけない。

もう少し記事の数が増えてきたら、かつて他のブログで登録していたようなランキングサイトに登録しようと思う。あるいは、相互リンクの充実化やフェイスブックを利用したリア友の引き入れに着手してみよう。客引きは重要だ。このままではエディタで日記を書いてデスクトップに置いておくのと大差ない。虚しいばかりである。

「そんなことより、おまえの準ひきこもりのような生活こそ虚しいだろ」

ああ、聞こえない聞こえない。あああああ。

年齢確認ボタンの意味を考える

世の中には不思議がいっぱいだ。分からないことだらけだ。理不尽、不合理、不可解なことが日常に溢れている。その中でもここ最近突出して不可解なのが、セブンイレブンにおける年齢確認である。

私はたばこを吸うので、ときどきセブンイレブンでもたばこを買うのだが、いつも、レジにて年齢確認ボタンを押せと、店員に命じられる。もちろん、実際の口調はマイルドであり、「年齢確認ボタンを押してください」とかいう言い方なのだけれど、実質的には、「ボタンを押さねばたばこは売らん」ということである。

この措置は、一見すると未成年への酒・たばこの販売を防ぐための常識的な方法に思えるが、しかし、具体的な状況を考えてみると、とたんによくわからなくなる。私たちは迷宮へと誘われることになるのだ。考えてみよう。

もし客が、二十歳以上かどうか微妙であれば、店員は身分証明書の提示を求めるなどして、しっかりと客の年齢を確かめねばならないはずだ。きっと法律的にも、店側にはそうした義務があるであろう。そもそも、未成年がたばこを買いにきたのだとすれば、その時点で、そいつは自分の年齢をごまかそうとしているはず。だから、二十歳以上ならボタンを押せと言われても、「すみません。実は十八なんです!」と言うはずがないのだ。つまりこの場合、ボタンを押させるのは意味がない。

また、もし客があきらかに二十歳以上であれば、やはりボタンを押させる必要はない。見ればわかるからだ。

つまり、通常ありうる事態においては、ボタンを押させる意味はまったくないのだ。

だが、しかし、年齢確認ボタンを押させる意味は、どこかにあるはずだ。これは確実だろう。でなければ、客にわざわざボタンを押させるという労を取らせるはずがない。セブンイレブンという大企業が、完全に無駄なことを客に強いるはずがない。

そこで、論理的に考えてみると、あのボタンを押させる意味が出てくるのは、次の三つの条件を満たしている場合のみだということが明らかとなる。

①客が実際は未成年である。
②にもかかわらず、その客は自分が二十歳以上だと勘違いしている。
③かつ、その客はきわめて素直で正直である。


つまり、こういうことだ。


ウィーン。
「いらっしゃいませ」
「ラッキーストライク一つ」
ガタゴト。
「こちらでよろしいですね?」
「はい」
「では、画面の年齢確認ボタンをお願いします」
「え、年齢確認ボタン?」
「はい、こちらの画面上のボタンを、よろしければお願いします」
「二十歳以上ですか、か……あっ!」
「どうなさいました?」
「すみません。僕、十九歳なんです。うっかり忘れてました」
「では、お売りできませんね」
「はい、一年後に出直します」
「またご利用ください。ありがとうございました」
ウィーン。


あるかーいっ!

エイモス・チュツオーラ

この空白の一年半、ほぼ出会いがなかった。むしろ、以前からの友人とは疎遠になり、社交の範囲はかなりせばまってしまったほどだ。悲しいことである。

しかし、そんな実生活での孤独とはうらはらに、書物の世界ではきわめて衝撃的・印象的・感動的な出会いがあった。その出会いの相手とは、ナイジェリアの小説家、エイモス・チュツオーラである。

何かの本で、保坂和志という人がチュツオーラを紹介しており、少しは興味を持っていたのだが、昨年の秋頃だったか、チュツオーラの処女作にして代表作『やし酒飲み』が岩波文庫に加えられることになった。「よし、そんなら安いことだし、読んでみよう」と思って書店で手に取り、帰って読んでみたら、ものの二十頁ほどで完全に魅了されてしまった。

この作品をどう説明したらいいのだろう。一応、「小説」ではあるのだけれど、欧米や日本のいわゆる小説とはまったく趣が違う。心理描写なんてほぼないし、詳しい情景描写もない。セリフもそんなに多くない。そんなら何が書いてあるんや、というと、ひたすら「こんな奇妙でおもろいことがあった」ということが書いてあるのだ。

たとえば、主人公は死んだやし酒作りの名人を死者の町から連れ戻すために(ここでもうかなりキてる)、旅に出るのだけど、途中、死者の町の場所を知るために、ある夫婦に道を尋ねる。けど、その夫婦は(この夫婦は神なんだけど、でも主人公は神々の父なのだ)、すんなり教えてはくれず、「教えて欲しいなら死神を捕まえてこい」という。で、主人公は死神を捕まえにいって、撲殺されそうになりつつも、結局落とし穴に死神を落として捕獲に成功するのであった。

とまあ、突拍子のないユーモアたっぷりの展開がずっと続くのだ。他の作品もだいたいそうで、何かをめざして旅に出て、その道中でぶっ飛んだ出来事に見舞われるというのが基本構造。

とにかく普通の小説とは違って、比喩表現をはじめとしたレトリックはほぼないし、リアリズムの欠片もないし、既存の文学の影響もほぼ見られない。強いて言えばホメロスの『オデュッセイア』やL.キャロルの『不思議の国のアリス』に似ているが、でもそんなに似てない。絵画の世界ではアウトサイダーアートというものがあるが、チュツオーラはまさにアウトサイダーの小説家。ぽっと出て来て、他のアフリカの作家にさして影響を与えるでもなく、消えて行ったのだ。

『やし酒飲み』以外だと、『ブッシュ・オブ・ゴースツ』と『妖怪の森の狩人』、それに『薬草まじない』がおもしろい。『薬草まじない』は後期の作品で、評論家のあいだでは今ひとつの位置づけらしいが、私としては『やし酒飲み』と並ぶくらいおもしろく読めた。<頭の取り外しのきく狂暴な野生の男>と<ジャングルのアブノーマルな蹲踞の姿勢の男>の二人が実にしつこくて怖くて、でも滑稽で愉快だ。

次の一年半では、この二人みたいな変わった人物とリアルで出会いたいものである。

2013年5月26日日曜日

まだ生きてた

前回の日記を書いてから、実に一年半が経過した。

この間にはさまざまな出来事があったが、私は何とか生きている。就職には失敗するし、体調がどん底に落ちたが、それでもどっこい生きている。肩の毛も、あいかわずそこに生えている。

ふとネットの世界を見回すと、すでに個人ブログはその役割を終えたかのようだ。一般の人のほとんどはフェイスブックだのツイッターだのに流れ、匿名かつ不特定の人相手のブログは衰退の一途をたどっている。当ブログのリンク先も、ほぼ更新停止状態だ。

けれども、当ブログは続くのです。たとえ閲覧者がおらずとも、ブログ文化が廃れようとも、公務員試験に落ちようとも、後輩の子にこっぴどく振られようとも、その後輩の子にかした画集とDVDを返してもらえなくとも、その子が挨拶すらしてくれなくなろうとも、続くのです。

さ、ということで、次は二年後にお会いしましょう。